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鼠小僧江戸屋敷を荒らす

 江戸学の始まりと言っていい三田村鳶魚(みたむらえんぎょ)翁の本によると、かの鼠小僧次郎吉が大垣戸田藩の江戸屋敷に忍び込んだらしい。彼はもっぱら大名屋敷の女性たちの居所である奥向や長局(ながつぼね)を専門に荒らしたのだが、これは警備が手薄で入り込みやすかったからで、言われている義侠の話はかなり怪しいようだ。でもとにかく十年間は捕まらなかったのだから凄い。で鼠小僧は、全部は覚えていない、とりあえず記憶しているものだけと言って、150件からの盗みを金額込みで白状したというのだが、どうしてそんなに細かく覚えていられたのだろう。盗難の事実を言い渋る各藩の留守居役から強引に聞き出したものを自白ということにしたのかも知れない。それはともかくその筆頭に出てくるのが何と「戸田采女正(とだうねめのかみ) 土蔵 422両」である。次が180両、170両、130両と続き、あとはぐっと金額が落ちる。ただ田安、清水、一橋、尾張、紀伊、水戸といったところが名を連ねる華やかなリストではある。あるいは他はもっと盗られていても恥ずかしいので少なく言い、大垣藩は正直に言ってしまったということかも知れない。もっとも皆、入られたのは奥向や長局であって、土蔵をやられたのは大垣藩のみである。当時の藩主は8代氏庸(うじかね・在位1806−41)、藩は慢性的な財政赤字で、先代氏教(うじのり)晩年の引締め政策で彼が家督を継いだ時は何とか蓄えがあったものの、またすぐ財政悪化に悩まされていたらしいから、この押込みは口惜しいところだったろう。小原鉄心が藩財政立て直しの任につくのは、鼠小僧が天保3年(1832)に処刑されたあとのことである。この江戸屋敷があったのは、江戸城外濠の一部でいまは地名だけが残る溜池から六本木に抜ける道の左手、アークヒルズといって全日空ホテルやサントリーホールがある一画である。大垣藩のひとたちは溜池の屋敷と呼んでいた。




大垣戸田藩の江戸屋敷があった場所
(ANAホテルやサントリーホールがある一画)

2010.1.18