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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

宮内庁技師が設計した大垣公園

 県の都市建築部街路公園課のサイトに「岐阜県の都市公園の沿革」が載っていて、「本県でも、太政官布告により明治6年、高山市に高山城跡を一体にした城山公園ならびに大垣市に大垣城を中心とした大垣公園がはじめて公園として開園することになりました」とある。欧米の都市に倣っての公園という制度はたしかにこの1873年の布告に始まるのだが、大垣が旧本丸と二の丸をあわせての公園設立を出願したのは明治13年(1880)である。五郡連合会による設立の理由が面白いので紹介しよう。「大垣町ノ如キハ四方悉ク水田ノミニシテ山野空濶ノ地ニ遠ク稠人雑居新鮮ノ空気ニ乏ク衛生上ニ於テモ関係少ナカラズ」、ゆえに公園が必要とするのである。このころまでに建物が取り壊されたり城門が払い下げられたりしたが、さらに大正から昭和の初めにかけて公園の拡張がはかられ、残っていた内濠が埋め立てられて、大きく装いを変えた。
 ここに市川之雄(ゆきお)という人物が登場する。彼は慶応2年(1866)東京生まれで宮内省に入り、皇室関係の建築と造園にかかわる内匠寮(たくみりょう)、のちに制度改革で内苑局に属した。造園のベテランで、内匠寮トップの内匠頭(たくみのかみ)片山東熊が設計した東宮御所(現迎賓館)や伊勢の神宮徴古館の庭をデザインしている。また新宿御苑の整備にもかかわり、30代にフランスへ派遣された彼は、それまで日本になかった擬木の欄干を導入、職人をフランスから招いて苑内の橋を完成させている。
 内匠寮の技師たちは、皇室関係以外に華族から仕事を依頼されることがあり、彼も東京と大垣の戸田伯爵邸および東京の小原男爵邸の庭園を引受けている。東京の戸田邸は関東大震災で神田駿河台の洋館が焼失したあとの11代氏共(うじたか)公の牛込若松町の邸宅であり、美貌の赤坂芸妓、萬龍との結婚で話題となった美術学校(現在の東京芸大)教授の岡田信一郎の設計であった。小原男爵邸は、鉄心の養嗣子忠廸(ただみち)の屋敷であろう。おそらくこうした仕事の関係からか、市川は先述の大垣公園の拡張工事を引き受けている。昭和3年(1928)に大垣市議会を通った公園の改修要領には、「此ノ施設計画ハ宮内省技師市川博士ノ設計ニ係リ」とあって、滝を改修してその水が公園内を流れるようにし、丘の部分に櫻の林を造り、さらには濠を埋め立ててプールや壁泉、児童用の運動施設を造ることが記されている。宮内省の技師たちは立場上、建物でも庭でも洋風と和風、双方に精通していたから、こうした和洋折衷の求めにもそつなく対応したと思われるが、市川のデザインはどんなものであったのか、今となっては残された数枚の写真に往時を偲ぶしかない。


2011.12.19