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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

横に破れ終には縦に破れ芭蕉

 虚子の句である。青々とした芭蕉の葉が茂る姿には、南国を吹き渡る風の思いがあって、まことに好ましい。しかし秋深まった芭蕉葉は見るも無残な姿を呈する。この世のはかなさを語るが如き破れ芭蕉は秋の季語である。おそらくこの姿ゆえであろう、普通の家の庭では、あまり芭蕉を見ることが無い。「破れ尽す貧乏寺の芭蕉哉」、この子規の句が示すように、あるとすれば寺の境内である。金春禅竹作の能『芭蕉』は、芭蕉の精が僧に自らの成仏を求めるもので、とくに怖い話では無いが、これとは別に、蕉妖といって女性のお化けが現れる話が各地にある。日野巌氏の『植物怪異・伝説新考』によれば、美濃の大井の里にも、美女となって隠棲する居士に同衾を迫った話が伝わるという。ただこの芭蕉の精は、ひとを殺めたりはしないようだ。日野氏は、「芭蕉は元来草、草が大樹の如くになる。草の王、千年の大樹が妖をなすように、その魂が化して妖をなすのであろう」と書かれている。
 このようなこともあって一般には植えることを忌まれてきた芭蕉だが、いっぽうでそのエキゾチックな形姿に、そもそもそれが生まれ育った中国の地に思いを馳せるよすがとして、好んで軒先に植えられることがあった。古い例では、すでに最澄の庵にあったことが『文華秀麗集』中の詩によって知られるし、松尾芭蕉も、芭蕉にまつわる中国のさまざまな故事来歴を熟知したうえで、その住まいに芭蕉を茂らせたのであった。「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」の句は、もちろん白楽天の「夜雨」詩の、「窓を隔てて夜雨を知る、芭蕉先ず声あり」と響きあっている。幕末の大垣の文人たちも、この点は同じであった。小原鉄心の無何有荘に芭蕉の群落があったことは、鴻雪爪(おおとりせっそう)の『山高水長図記』の挿図で知られるし、江馬細香の庭に芭蕉が植わっていたことは、彼女のいくつかの詩によって明らかである。そのひとつ、「別後人に贈る」の「尋常の蕉雨かつて聞き慣るるに、似ず今宵の滴々の声」もまた、先に引いた白楽天の詩に繋がっている。芭蕉への思いは明治以降の文士たちにも引き継がれ、夏目漱石や谷崎潤一郎の庭にもその茂みがあった。その後のヨーロッパ志向の世代に属する瀧口修造や猪熊弦一郎が庭にオリーブの樹を植えたのと良い対照をなしている。
 ところで大垣では結びの地記念館が出来て、その周辺もあわせて整備されるという。そのどこか一画に、芭蕉の群落を造れないものだろうか。大垣が看板にする元禄の時代と幕末の時代とをひとつに結ぶ良き絆となると思うのだが。東京深川の記念館などでも、芭蕉は申訳ふうに一本、わびしく立っているのみだが、芭蕉は群になってこそ趣きが出る。以前、熊本のご先祖が代々家老職を勤められたお宅で拝見した大群落は実に迫力があった。鉄心ゆかりの大醒榭もいつかはそうした文人の庭とひとつになって欲しいものである。


2011.11.21