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「死の商人」から銃を求めた小原鉄心

 司馬遼太郎の『峠』は、長岡藩の河井継之助が主人公の長編だが、その中に横浜に店を構える武器商人たちが登場する。スイス国籍のファブル=ブラントと、オランダあるいはトルコともされるが「実際の国籍はプロシアらしい」と司馬がいうエドワルド・スネルである。後者について司馬は「幕末の日本で活躍した冒険商人のなかではもっとも特異な人物であり、後世の史家から怪人物の印象をもって見られつづけている男である」と書いているが、諸藩の武器を調達してグラバーに並ぶ「死の商人」と呼ばれる彼の経歴には謎が多く、国籍も決定的な説が無かった。しかしたびたび引用する小原鉄心たちの江戸往復の旅日記『亦奇録(えっきろく)』中の鉄心との問答によれば、国籍はオランダが本当らしく、またオランダ領東インド、現在のインドネシアの地に生まれたことも分る。彼の兄ヘンリーはプロシア領事館に、またエドワルドはスイス領事館にも関係していたらしく、その辺の人脈を最大限に利用しての商いだったようだ。河井は結局、南北戦争で開発されたガットリング砲2門と相当な量の銃を購入するのだが、それは司馬の書いている横浜でのことではなく、スネル兄弟が店を移した新潟での取引だったかも知れない。
 ところで小原鉄心は『亦奇録』の旅ではじめてエドワルドに会ったようだ。あいだを取り持ったのは、のちにベストセラーになる英和辞典を刊行、また読売新聞の創始者ともなった子安峻(たかし)である。大垣藩出身の彼は、幕府に語学の才を買われて、当時、横浜運上所(今日の税関)に勤めていた。鉄心は開設されたばかりのボーリング場でスネルにその腕を褒められている。これは慶応2年4月、江戸に着く前日のことだが、鉄心は6月、大垣に戻る旅の直前にもスネルを訪ね、自分用に上等の銃を買い求めている。このときスネルは、もし西洋人と戦うことがあっても、けっしてこれを使わないように、なにしろ百発百中ですからねと言っている。またこれも横浜に出来たばかりの競馬場で持ち馬で一攫千金を狙うつもりとか、その話しぶりからはあまり良い印象を受けない。スネル兄弟の最終的な消息は不明だが、兄ヘンリーは戊辰戦争に会津藩の軍事顧問の肩書を貰い、戦後、会津の人たちを率いて渡米、カリフォルニアに日本人コロニーの建設を試みたらしい。彼はいかにも危なっかしいこの企ての金策にと言って出奔したまま行方知れず。エドワルドは新潟から東京に移り、そのあとスイスに居たとの説があるようだが、これもよく分らない。しかし幕末から維新にかけての動乱の一瞬に暗躍した武器商人の数奇な生涯が、ただ一度だけ鉄心と接点を持ったのは確かである。


2011.10.17