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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

ちょっと気になる大垣の評判

 こうやって十年を超えて住んでいると、このまちを訪れたひとの感想がつい気になってしまう。まず司馬遼太郎。昭和60年の元旦付の刷物に載っているから、前年11月29日に大垣市文化連盟などが開催した講演会に来たときのことであろう。羽島駅から車を使ったようだ。「大垣についたのは、夜だった。ビジネス・ホテルに荷をおろし、夜の町を歩くと、人通りがまれで、ふと暗い水底を歩いている思いがした。めずらしく路傍に人影がむれているので、酒食を売る店かと思うと、通夜をする家だったりした。」ちょっと哀しい。でも彼がたまたま見つけて入った飲み屋が、思いがけず勤めの関係で養老に住んだ旧友が時折、訪れていた店と分って話は少し救われる。司馬が61歳のとき、アピオ開業の2年前である。
 次はその4年後くらいにやってきた田辺聖子。講談社が女性作家11人を択び、「古典の旅」という叢書を企画した。田辺の担当は『おくのほそ道』である。本が昭和64年9月の刊行だから早くて63年というところか。やはり60歳ちょっとくらいでの來垣である。これは厳しい。敦賀からの汽車を降りて、むすびの地記念館を一見したあと、「タクシーの運転手さんに聞くと、<さあ。大垣はおいしものってないところでしてねえ。え?郷土料理?それもないですよ>という。地もとの人がいうのだから助からない。不吉な予感がしたが、目についたおすし屋へ入ってみる。寝くたれ髪のおばさんが出て来た。」で、その予感は当たって、取材の一行は茄子の古漬を巻いたような鉄火巻とか、チューインガムのような蛸を食べさせられる羽目になる。間違ってどこか他のまちに行かれたのではと言いたいほどの内容だ。でもお二人とも、そのあと文化功労者に択ばれ、さらには文化勲章を貰われたから、大垣参りはご利益ありと宣伝出来るかも知れないが。
これに比べると戦前の大垣の評判はなかなかのものだ。自由律俳句の荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)は、大正13年、40歳の年から芭蕉の足跡を辿る旅を重ねる。大垣に遊んだのは、その年の11月8日。前の晩、関ヶ原から着いたようだ。「大垣のまちは、白亜の天主閣を中心としているばかりではない、何処となく古風なものが残って落着いているように思われた・・・岐阜の繁華には及ばないだけ、岐阜のように騒がしい電車の音もなく、堀割川に添うた橋や柳などが、京都の堀川辺に好く似た感じだった。水の豊富なことも住み好く居心地の好い所のように思われた。私の泊まった宿では、噴井(ふんせん)の水を鉛管にして洗面所にも引いてあるが、そのからんはいつも明け放しにして・・・」と、『芭蕉を尋ねて』(昭和3年刊)に綴っている。昔といまは違うから、まあここまでは行かずとも、とりあえず訪れたひとに良い印象を書きとめてもらえる大垣でありたいものだ。


2011.8.15