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谷文晃、伊吹山を描く

伊吹山のことは芭蕉絡みで二度も触れたので、また伊吹山かと言われそうだが、もう一度ご辛抱いただきたい。

今回は伊吹山をどこから見るかという話である。
実は昨夕、よく寄せていただくお寿司屋さんに伺ったところ、たまたまご主人の学生時代からの友人で歳をとってからの山登りを楽しまれている方が居られ、ひとしきり山にまつわる面白い話を伺った。山に関心がおありの方なら播隆上人のことなど先刻ご承知だろうが、笠が岳の開山は他ならぬ円空で、文政年間、播隆上人がこの忘れられていた山に登って再興し、その折、頂上から望んだ槍が岳に惹かれて5年後についに開山、そのときブロッケン現象が起きたのを阿弥陀仏の出現と見たという話は私には初めてで興味深かった。新田次郎の『剣岳・点の記』に描かれた陸地測量部と日本山岳会の先陣争いで、やっと到達した頂上に錫杖の遺物があったという話の通り、険阻な山を求めて先ず登頂したのは強い修験の志を持つ人々だったのだ。
そんな話のなかで、私がまったく何気なく、ところで伊吹山はどちらから見るのがいちばん良いと思われますと切り出したところ、たちどころに米原のほうからの景色という答が返ってきて、びっくりしてしまった。前にも書いたように、私は大垣からの山容に惚れているので、ひそかにそういう答を期待していたからである。ただ驚いたのにはもうひとつ訳があった。江戸時代の後期、画壇の寵児だった谷文晃が文化元年(1804)に私家版的な『名山図譜』に載せ、さらに8年後に増補して一般向けに刊行した『日本名山図会』に再録した伊吹山の絵が、まさに米原辺り、もっと正確には醒ヶ井辺りからの山容なのである。私は長浜大通寺の伊吹山を借景にした庭も知っているし、どうして文晃はよりにもよってこんな側からと、ずっと思ってきたので、ああそういう見方もあるのかと、この方の答に目を見開かされる思いもしたのである。この視角は、ずんぐりむっくりの感じがある一面、山のもつヴォリュームが良く捉えられる向きでもある。そうか山の景は稜線だけではないのだとあらためて考えさせられたことであった。
ところで文晃のこの図集は、絵の最終的な描き手は彼だが、彼が完全にまとめたとは言い難い面もある。それぞれの山容を択んだのは最初の版の版元格の医者で趣味人の河村寿庵らしいし、文晃が行っていないところについては、弟子のスケッチをもとにすることもあったらしいからである。もっとも文晃をひいきにした松平定信が、三十ちょっとの彼が訪れていない国は四つ五つと言っており、それこそ仕事で江戸と京のあいだを何度と無く往復している筈だから、伊吹山は熟知の山であったに違いなく、この絵は文晃の目が択んだ景と考えて良いであろう。私ももう一度、ゆっくり彼と同じところから伊吹山を眺めてみようと思う。

・谷文晃『日本名山図会』の伊吹山の図


谷文晃『日本名山図会』の伊吹山の図

2011.7.19