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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

大垣藩の元藩士が開いた蕎麦屋

『蕎麦通』という本がある。昭和5年(1930)、三省堂がその前年に設立した子会社、四六書院が刊行した四六判の通叢書の一冊である。このシリーズはそれこそ何でもありという感じで、『酒通』、『探偵小説通』、『洋装通』、『映画通』、『上方色街通』といったタイトルが山のように並び、著者には『蓄音機とレコード通』は野村あらえびす、『支那旅行通』は後藤朝太郎と、いちおう然るべき人物も抑えている。で、『蕎麦通』の著者は村瀬忠太郎というひと。何故彼が択ばれたかというと、当時、蕎麦打ちの名人として高名だったからで、昭和4年4月には、その経営する滝野川区中里町(現在の北区)の日月庵やぶ忠で、佐藤春夫や豊島與志雄あたりまで巻き込んでの変わり蕎麦の集いを開き、以後毎月、例会をもったりしているほどである。
この話が大垣に関係して来るのは、実は彼の父親が江戸で蕎麦屋を始めて成功したゆえで、彼がこの本で自ら語っていることによると、父はもと大垣藩士だったが、永のお暇になってこの商売を始めたという。江戸で店を開いたからには、あるいは江戸詰めだったのかも知れない。大垣藩のリストラは、ともに170人余の首切りをした延宝8年(1680)の大暇と延享4年(1747)の永御暇が有名だが、この2代目が安政6年(1859)に生まれたことを考えると、リストラはそれだけで終わらなかったらしい。
ところでこの本には旗本の二、三男などで職人になる者が少なくなかったとある。たしかに部屋住みで行く先も見えず、それでいて何かと堅苦しい武士の世界はもううんざりという人間は居た筈だ。で、二君にまみえずとして町人になった父親が開いた店の名は美濃屋。ところは「赤坂新町5丁目の角家」とあるから、萬延2年(1861)尾張屋版の赤坂絵図にここと抑えられるし、贔屓にして貰ったとして名の挙っている大名や旗本たちの屋敷もすべて近くに確認出来る。大垣藩上屋敷も遠くはないし、創業にあたって土地勘のある場所を択んだというところだろうか。たまたまご贔屓のお姫様が養老庵という名前を下さったので、彼女がお出での日は違う名の暖簾になったという可笑しい話も載っている。
ところで初代があちこちのお屋敷に届けた蕎麦は実は変わり蕎麦で、蕎麦粉に季節ごとに菊、柚子、芥子、木の芽などを練りこんで打ったものだったという。新時代になって消滅したこれを復活させ賞味しようというのが前述の蕎麦の集いであった。この本にはゴーストライターがいたらしく、2代目の語りに古文献の記述や近年の資料などを交えてまとめたようだが、その蕎麦百科とも言える内容から、本が出版された昭和初年には、すでにカレー南蛮やコロッケ蕎麦のたぐいが食されていたことが分るのも面白い。


2011.5.16