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「両」を「円」と表記するひとたち

小原鉄心が部下の藩士たちを連れての江戸往復の旅の日録、『亦奇録』(えっきろく)で、ひとつ引っかかったところがあった。江戸滞在中の慶応2年(1866)4月21日のことである。鉄心は藩士4名を連れて柳橋の料亭での書画展に赴く。しかし俗客のごったがえしに嫌気がさして早々に退出、舟を雇って鉄砲州に南画家、木下逸雲を訪ねる。その画業は神に入り都下に及ぶ者なしと、この日の記録担当の野村藤陰は評している。ここに呉寿英製の筆が何箱もあるのを見せられ鉄心は驚喜する。これが好みなのだが上方でいくら探しても手に入らぬ。ぜひ分けてくれと数十本を乞い、他もまたこれにならう。で、お礼に13円払ったというのである。実はこのあと8月、長崎へ帰る船が台風にやられ逸雲は67歳の生涯を閉じるので、この日の訪問はきわどいものだったのだが、それはさておき、謎は13円という記述である。周知のように円という貨幣単位は明治新政府が採用したもの。この時点ではあくまで両が単位の筈で、この円が何を指すのかが分らなかった。
しかし最近、三上隆三の『円の誕生』を一読するに及んで疑問は氷解した。三上によれば、幕末の進歩派の連中に両を円と読み替える者が多かったとのこと。高野長英、橋本佐内、横井小楠、佐久間象山といった名前が並んでいる。さらに井伊直弼のために安政の大獄で間諜役を果たした村山たかの慶応3年の事例は、旧単位の小銭の合計を円で表記していることから、「新貨称呼としての円の一歩手前」と評されている。清国が当時の国際通貨であるメキシコドル(スペインの銀貨)を銀円と呼び、さらにはたんに円と呼んだのに倣ってのことらしい。『古事類苑』には「一両ヲ一円・・・ト云フガ如キハ、徳川時代、漢学書生間ノ通語ナリキ」とあるそうだから、これを知らなかったのは、明らかにこちらの勉強不足である。
「漢学書生間ノ通語」ということで思いあたるのは、中国人に似せて三文字で名前を記す風である。『亦奇録』にも、菱(田)海鴎、野(村)藤陰、鳥(居)圭陰、宇(野)南村,田(中)雨石と、一字を略した表記が頻出する。もちろん他の本でもよく見かけるところである。これは中国風を気取るということもあろうが、むしろさきほどの「円」という表記ともども、男たちが日常的に漢文で文を綴るゆえに、おのずと赴くところという気がしないでもない。三上はさきほどの本で、私的に「円」の表現を用いた文化人たちが新政府の官僚になったのだから、新しい鋳造貨幣の単位を円にすることは、すんなり決ったに違いないと言っているが、参与の大隈重信と連名で、新貨幣を円形にして10進法を採用するよう建議したのは、小原鉄心がその才を買って自らが籍を置く会計局に呼んだ大垣藩出身の俊秀、造幣局判事の久世治作であった。ただこのとき、単位の当初の候補は「元」だったというが、三上の言う通り、単位名は先の2点に比べればさほど重要ではないので、とりあえずすでに巷に氾濫する「円」を避けたということかも知れない。こうして明治2年3月の建議から何ヶ月も経たぬうちに新単位は「円」と決まった。


2011.4.18