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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

小原鉄心ゆかりの福井の料亭

文久2年(1862)5月、小原鉄心は病を理由に職を辞し、6日から菱田海鴎、小寺霞峯を伴に、堀七兵衛なる偽名で北陸と上方の旅に出る。福井藩士や三条実美(さねとみ)などに会うこの旅は、のちの大垣藩の去就についても重要な意味をもつものであり、表向き病の治療ということにしての内密の旅という感じがある。事実、鉄心は6月14日には大垣に戻り10月に復職している。旅の彼らが最初に訪れたのは鴻雪爪(おおとりせっそう)が居る福井であった。大垣全昌寺の住職だった雪爪は、安政5年(1858)、越前の松平春嶽に請われて福井の曹洞宗の名刹、孝顕寺に移っていた。鉄心は3歳年上の雪爪を師と仰ぎ、また彼の持つ人脈に少なからず助けられていたようだ。
福井に着いた翌日の10日、鉄心たちは丹巌洞で藩老以下数十名の福井藩士たちとの酒宴に臨むが、これも雪爪の仲介と思われる。丹巌洞は福井城の西南、笏谷(しゃくだに)石を産する足羽(あすわ)山の麓、いまは川と離れているが、かつては大きく蛇行する足羽川に面していた。ここは藩医で文人の山本瑞庵の別墅(べっしょ)であり、国を憂う藩士たちが何かにつけては集まって議論を重ね、また文人墨客が風流を求めて訪れる場所であったようだ。幕藩体制のもとで他藩との付き合いは厳しく取り締まられていたが、近年、それが少し緩んできた、それでもこのように皆が心を開いての集まりは初めてであろうと、雪爪は後に著わした回想録『山高水長図記』に記している。この会には春嶽は居なかったが、中村規一の『小原鉄心傳』によれば、17日、すなわち福井を発つ前日、鉄心は雪爪の寺で彼と会ったことになっている。しかし川端太平の著わした伝記『松平春嶽』には、春嶽が5月16日に江戸城で閣老に意見を開陳とあって矛盾する。今後、春嶽の日記などを調べてはっきりさせなければならないことである。
この日の出来事を綴る先述の雪爪の本の挿図には、二階建てと平屋の2棟の建物が見えるが、現在、敷地内に残るのは、弘化3年(1846)に建った2間に3間ほどの2階建てに下屋が付いた土蔵造りのものである。昭和初年、付属する広大な庭園と薬草園とともに、隣接する石材業の宮崎家に譲渡された。宮崎家では当初、仕出し屋を営まれたが、先代が料亭を始められ、いまでは福井に丹巌洞ありと知られる存在になっている。もちろんお座敷は新築で、名残りの建物は離れとして大事に保存されている。私は福井で会議のあった際に伺って拝見させていただいたが、かつて来遊した人々の書や遺物がいろいろ遺されていて、当時の熱気が伝わってくる思いがあった。その会合のとき、福井藩士のひとりが鉄心と雪爪が盃を交わす図を描き、それに鉄心が賛を寄せたらしいが、これは残っていないようであった。離れはかなり傷んでいて、維持に腐心されているものの、いつまで持つかとご心配の様子であった。幸いに第二次大戦の空襲と福井大震災の難をともに逃れ得たこの建物に、うまく何らかの援助が得られ、末永く保存されることを祈りたい。

『山高水長図記』(明治27年=1894刊)上巻の「丹巌松濤」の挿図


『山高水長図記』(明治27年=1894刊)上巻の「丹巌松濤」の挿図

2011.3.22