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大垣つれづれ

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大垣つれづれ

明治11年に天皇を迎えた大垣

林町の旧道に面する岡田家をお訪ねした。林村御召替所として明治天皇聖蹟とされてきたお宅である。ただ、いまの建物は、当時の家が濃尾大地震に被災したあとの建て直しとのことであった。岡田家はいまから300年ほどまえ、宝永年間に雨合羽の製造を始められ、その後、時代の流れに合わせて防水マントやシートを製造、近年は柿渋を塗ったバッグやエプロンなど、ユニークな製品を開発、お店のほか、第一日曜のハツラツ市でも求めることが出来る。敷地は間口もあるが奥がまた深い。以前、製品を干す場所だったという広い庭もある。この屋敷での「お召替」は衣類のことでは無く乗物であった。前の晩の宿泊所である旧本陣飯沼家、いまの竹島会館からここまではアラビア馬2頭が牽く馬車が使われたが、ここで板輿に換えて北に向かったのであり、その間、明治天皇が岡田家で暫時、休憩された訳である。
ただこの大垣来訪は突然決まったことで、対応は大変だったようだ。明治政府は天皇が全国を歴訪する計画を樹て、大巡幸としては3度目の今回は北陸と東海が対象であった。当初の予定では、8月30日東京を発って前橋・高崎から越後に出、新発田から長岡・富山・金沢と下ってきて、大津から桑名、それから岐阜と名古屋を訪れ東海道にという2ヶ月強の旅程が組まれていた。ところが三重県でチフスが発生、予定を変更して京都に回り、10月20日京都発、関ヶ原経由で22日大垣泊という連絡が来る。県側は大垣から岐阜への途中に道幅4尺のところがあり馬車が無理なので他の道をと京都に電信を送る。しかし道筋に変更なし、馬車が駄目なところは板輿を使うとの返事。こうして岩倉具視、大隈重信、大山巌といったお歴々に前回の話に登場の大警視川路利良も加わり、全体では大変な人数の一行が22日の午後5時過ぎ、大垣町に到着する。軍装の天皇は和風の家でも畳の上に敷物を敷いて靴のまま上がる。机、椅子、ベッド持参であり、洋風の生活をしていることを人々に印象付けるようになっていた。翌23日朝7時に出発した一行は途中、岡田家を借りて馬車から板輿への乗換えを行い、楽田村で呂久川を仮船橋で渡り、そこでまた馬車に乗換えたのである。ところで26歳の若き天皇は、岡田家でも座敷に持参の敷物を敷いて靴のまま上がった筈である。そのあとあわただしい出発に取り紛れて敷物1枚が岡田家に残された。岡田家はこれを次の岐阜の宿泊所に届けたが、その受領書が、ご下賜金5円の水引がかかった包紙とともに、いまも岡田家に大事に保存されている。


2010.12.20