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飯沼慾斎と牧野富太郎

IAMAS(情報科学芸術大学院大学/国際情報科学芸術アカデミー)が主体となってまちなかで行う「おおがきビエンナーレ」の今年のタイトルは「温故地新」。古いものを軸にこの地をフレッシュにというほどの心持であろうか。そこで飯沼慾斎(1783−1865)顕彰の展示と催しをするとのことなので、ここでは彼と植物図鑑で著名な牧野富太郎(1862−1957)との繋がりについてお話することにしたい。
よくご存じの方も多いと思うが、慾斎は幕末の大垣が生んだ傑出した植物学者である。彼はもともと本草学に関心が深く、また江戸に蘭学の勉強に行ったりもしているが、本来は伯父である大垣の町医者、飯沼長顕の婿に入って、その家を継いだひとである。医師としての評判は大変高く、ために藩医の連中のそねみを受けることもあったようだが、50歳になった年、飯沼家の長男に家督を譲り、自らの住まいとして現在の長松町に平林荘を建てる。これは彼の研究室であり庭は植物園となった。60歳くらいまではいろいろ関心のある事柄を調べたりしているが、それから画期的な植物図鑑の編纂に残り20年余りの人生を集中する。その結果、生まれたのが『草木図説』であり、これはリンネの植物分類法に基づいて整理された日本ではじめての図鑑であるだけでなく、そこに描かれた図版の内容の正確さでも出版当時から評価が高いものである。
『草木図説』は慾斎の生前、「草部」のみが刊行されたが、牧野は明治の末から大正初めにかけて、その増訂版を刊行した。牧野はこの先達を大変尊敬していて、わざわざ平林荘を訪れたこともあり、そのとき慾斎遺愛のトウツバキの花が咲いているのを見て細かな写生図を描き、それを自著に掲載したほどである。牧野の増訂版は彼らしく徹底したもので、解説を増補するだけでなく、自らが描いた詳細図なども加えている。この増訂版の刊行は、『日本植物志図篇』や『大日本植物志』という牧野にとっての『草木図説』がいずれも中断のやむなきにいたったあとのことで、さながら慾斎の生まれ変わりのような牧野の仕事は、その後、彼の名を一般に知らしめた植物図鑑に結実するのである。いま高知市の郊外にある牧野植物園を訪ねると、内藤廣さんが設計した風が吹き抜けて行くような記念館が建っていて、そのなかに5万冊からの牧野の蔵書を収蔵する牧野文庫がある。慾斎の生前に刊行されずじまいの『草木図説』「木部」の自筆稿本はここにある。2002年にここで牧野の蔵書の展覧会があり、慾斎の稿本や遺愛の顕微鏡を感激して見たことを思い出す。
ビエンナーレでは、駅前通りの多目的交流イベントハウスで慾斎の仕事についてのシンポジウムや展示があり、ヤナゲンのウィンドウにも飾るという。また『草木図説』のすばらしい彩色原画の電子版書籍を作るということで、その序文代わりの解説を書かされたので、慾斎の時代と生涯、『図説』の意義などについては、そちらをご覧いただければと思う。


2010.9.21