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予習をすれば面白くなる! 西美濃的 大河ドラマ『真田丸』と関ケ原合戦

 2016年1月からスタートした大河ドラマ、「真田丸」。主役は真田幸村(信繁)で、主に1614年の大阪の陣での活躍が広く知られる猛将です。
 戦国時代を題材とした大河ドラマは人気が高くなる傾向にあると言われますが、今回もスタート前から方々で高い期待を感じます。もともと真田幸村は人気のある武将でもあり、とても注目度が高いようですね!
 今回の特集では、大河ドラマ「真田丸」にも登場する西美濃地域ゆかりの人物や逸話・スポットについて、知っておくと大河ドラマが楽しめるポイントをまとめてみました。
「今回の大河ドラマは西美濃と関係ないじゃん」と思うナカレ!実は、西美濃とも縁の深い人物や出来事がたくさん登場予定なのです。

タイトルにもなった『真田丸(さなだまる)』ってなに?

真田幸村戦死跡之碑の写真
2016年大河ドラマのタイトルは「真田丸」。
「真田丸」とは、1614年の大合戦「大阪の陣」において真田幸村(信繁)が大阪城の南に築いた砦(とりで)のことです。
 難攻不落の堅城と言われる大阪城で、唯一防御の弱い南側からの攻撃を想定し、防御と攻撃の要として建てられたこの砦。幸村自身もここに出陣し、迫りくる徳川の軍勢に大ダメージを与えたと言われます。

 真田幸村(信繁)はこの「大阪の陣」での死闘の末に絶命したとされますが、ドラマのタイトルが「真田丸」ということで今回の大河ドラマ最大の山場ははもちろん「大阪の陣」。
 人生のうちほぼ大半は日の当たらない人生だったとも言われる幸村ですが、大阪の陣で鮮烈な活躍を見せるまでには何があったのか。あまりにも有名でありながらいまだ謎の多いこの人物が大河ドラマでどう描かれるのか、期待が高まります。

大河ドラマ「真田丸」 真田家主要3人の人物紹介


本名、真田信繁。真田昌幸の次男。「日本一の兵(つわもの)」と称えられた猛将。
「大阪の陣」ではあの徳川家康を震え上がらせるほどの戦いぶりを見せる。


真田幸村の兄。幸村とは対照的に生真面目で、温厚かつ冷静な性格。関ヶ原合戦の前に父弟と袂を分かち、ひとり東軍につく。その際、信幸という名を信之と改名。


幸村・信之の父。天下に轟く「くわせ者」で、天才的な知略を駆使して真田家を動かす。徳川家康とは古い因縁があり、相容れぬ関係。

大河ドラマ「真田丸」にも登場! 日本最大の戦「関ヶ原の戦い」を予習しよう!

秀吉亡き後から始まる、日本中を巻き込んだ最大の合戦【関ヶ原の戦い】




太閤 豊臣秀吉の時代、それまで続いていた群雄割拠の戦国時代は終結したかのように見えました。
しかし1598年に秀吉が没すると、時代はふただび、急速に戦乱へと傾いていきます。
秀吉時代から存在していた内部対立も関係し権力闘争が始まると、豊臣恩顧の武将・石田三成と徳川家康の確執が表面化。
1600年、ついに石田三成率いる「西軍」と、徳川家康率いる「東軍」が関ヶ原で激突。日本最大の戦と言われる関ヶ原の戦いが勃発します。
現在人口7000人ほどの小さな町には、合戦当時、西軍8万人、東軍7万人という大軍がひしめき合い、対峙しました。
 この合戦では東軍・徳川家康が勝利し、事実上「戦国時代」は終焉を向かえ、以後幕末まで250年続く日本の支配者が決定付けられます。

 大河ドラマ「真田丸」の主人公、真田幸村(信繁)とその父・真田昌幸は西軍に属しましたが、関ヶ原の地では戦っていません。
彼らは彼らの領地で人々に参戦を呼びかけ、上田城に籠城。城を、土地を、民を守るために、3万8千の徳川大軍勢と死闘を繰り広げることになります。

<1600年 関ケ原合戦時 人物相関図> 親兄弟が敵味方に分かれ…


関ヶ原の戦いにおいて、真田昌幸・幸村父子は西軍に、兄・信之は東軍に属し、親兄弟が敵味方に分かれて争うことになりました。
これは東西どちらが勝っても真田家の存続を残すための手段だとも言われますが、幸村と信之それぞれが娶っていた妻との婚姻関係ももちろん影響しています。
真田幸村は、西軍の将・大谷吉継の娘を妻に迎えており、兄の真田信之は、東軍総大将 徳川家康の家臣・本多忠勝の娘と婚姻関係を結んでいたためです。

関ヶ原の戦いで活躍する武将たちが大河ドラマ「真田丸」にも登場!

石田 三成
「大一大万大吉」の理想を掲げた、孤高の西軍指揮官

西軍の実質的な指揮官。行財政の才能に優れ、秀吉に対する忠誠心がとても高かった三成は、秀吉亡き後に野望をあらわにしはじめた徳川家康を打倒すべく立ち上がりました。
「豊臣が築いた平和を守るため」「秀吉への"義"を貫くため」
関ヶ原の戦いでは笹尾山に陣を置いて指揮官として戦うも、相次ぐ味方の寝返りに遭い、敗走。
のちに捕えられ、京の六条河原で処刑されます。

石田三成が陣を置いた笹尾山の頂上からは、古戦場全域を見渡すことができます。三成は決戦の日、この地で何を思っていたのでしょうか。

大谷 吉継
重病を押して出陣、三成との友情に殉じた知将

豊臣秀吉に、「100万の兵を指揮させてみたい」と言わせたほどの才能の持ち主。しかし重病を患っており、「関ヶ原の戦い」のときには視力がほとんどなく、手足も自由に動かせなかったそうです。
幼いころから共に秀吉のもとで仕えた石田三成とは仲が良く、はじめは三成の挙兵に反対したものの、病を押して出陣することを決意。その優れた才を三成のために使いました。
関ヶ原の戦いにおいて、吉継は小早川秀秋の寝返りを予測していたと言われ、小早川の陣跡である松尾山の真正面に布陣。正午すぎ、やはり東軍に寝返った小早川隊の攻撃にも動じることなく対応しました。
しかし、小早川の寝返りに呼応した脇坂・赤座・小川・朽木の4隊もが同時に東軍に寝返ると、なだれのように押し寄せる東軍勢に飲み込まれ、大谷隊は壊滅。
敗北を悟った吉継は、布陣していた藤川台(藤古川西岸の台地)付近で自刃しました。

石田三成と大谷吉継 友情の逸話

重い病に冒されていた吉継は、病のせいで崩れてしまった顔を人目に晒すことを嫌って、常に白い布で顔を覆っていたと言われています。
あるとき豊臣家の将が集う茶会で、1つの茶器からお茶を回し飲む際、吉継のあとの者はみんな病気がうつることを気味悪がって飲むのをためらいましたが、三成はその茶を奪い取り、全て飲み干したと言います。

1600年、「打倒 徳川家康」の決起に燃える三成に対し、吉継はこの決起をやめさせるべく説得。三日三晩激論を交わし合いました。
「お前が家康公にかなうわけがない」「相手は255万石の大大名、戦の名手でもあり実力は群を抜いている」「無謀すぎる」。
しかしいくら反対しようとも三成の決心は固く、吉継のほうも20年来の親友を見捨てることはできない。ついに、吉継は三成のために命を投げ出す決心をします。このとき吉継の胸内では、あの茶会でのことが蘇っていたかもしれません。

心を許せる数少ない人物を味方に得て、三成も大変喜んだことでしょう。

本多 忠勝
家康に過ぎたるものと謳われし、徳川家中 随一の猛将

徳川家康の側近として仕え、大きな功績を立てた「徳川四天王」の1人。
生涯で57度もの戦に参戦しましたが、いかなる激戦も「無傷で切り抜けた」と言われる徳川家中随一の猛将です。

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」という本多忠勝の武功を称える名文句(狂歌)が存在し、その活躍は敵味方を問わず賞賛されました。
関ヶ原の戦いでは、徳川家康率いる東軍の「軍監」として参戦。敵中突破する西軍の島津勢を追撃し、戦功を挙げました。

本多忠勝の娘・小松姫と、真田信之のなれそめ逸話


徳川家と真田家が戦った「第一次上田合戦」ののち、秀吉の仲介で和睦となった両者。徳川家康は、家臣である本多忠勝の娘・小松姫を自らの養女とし、真田信之に嫁がせます。
しかしこの小松姫の嫁入りには、真偽が定かではない面白いエピソードも伝わっています。

親同士が結婚相手を決めるのが習わしであった戦国の世にあって、小松姫は「自分の結婚相手は自分で決めるわ!」と宣言。この望みを聞いた家康は、小松姫の婿候補の大勢広間に集め、小松姫自身に選ばせることに。
家康の前とあって平伏している婿候補たちを見た小松姫は、「これじゃ顔がよく見えないわ」と言い、なんと若侍たちの髷(まげ)を掴んで順番に上を向かせていきました。
婿候補の若侍たちは小松姫のあまりの行動に言葉を失うも、家康の前ということで何も言えずなすがまま。
しかし、ある若侍の髷(まげ)を掴もうとした瞬間、「無礼であろう!」という言葉と同時に、その若侍は小松姫の手を打ち据えたと言います。その若侍こそが、真田幸村の兄、真田信之でした。
一瞬ヒヤリとした空気が流れたものの、信之のこの行動を見た小松姫は、「この方に嫁ぎます」と決意。結婚後は、信之を気丈に支える良妻賢母となりました。

このエピソードは後世に作られた逸話とも言われていますが、信之は実際に小松姫を病気で亡くした際に「我が家から光が消えた」と言って嘆き悲しんでおり、仲のよい夫婦であったことは確かなようです。

徳川秀忠、関ヶ原の戦いに遅参! 信州・上田城で、西軍に付いた真田昌幸・幸村父子と激突【第2次上田合戦】


1600年8月、関ヶ原で合戦が起こる約3週間前。
徳川家康の息子・徳川秀忠(のちの徳川2代将軍)は、三成の挙兵を受けて東海道から西へ向かう家康とは別ルート(中山道)を経由して3万8000千の軍勢とともに西へ向かっていました。
その進路にあるのは上田城。三成の挙兵を受けて西軍に属していた真田昌幸・幸村父子の城です。

東軍・徳川秀忠の軍には、幸村の兄である真田信之も随行していました。秀忠はまず、真田ゆかりである信之らを使者として上田城へ派遣。昌幸に対し、敵対を改めて降伏し上田城を開城するよう要求します。
しかし真田昌幸は逆に秀忠を挑発し、降伏を断固拒否。怒った秀忠は、上田城を攻め落としてから美濃へ向かうことを決意。9月6日、総攻撃を命じます(第2次上田合戦)。


3万8千という大軍を率いる徳川秀忠は上田城など簡単に落とせると考えていましたが、しかし戦の相手は、秀吉に「くわせ者」と評された戦国屈指の知将・真田昌幸。この老獪な謀将の策に踊らされた徳川勢は、わずか2500ほどの真田の兵たちを相手に苦戦、戦線は膠着します。
すぐに落とせると見た城がなかなか落とせず、「智謀」真田の術中にはめられた徳川勢。膠着状態のまま数日間を虚しく費やしますが、家康より「早く美濃へ向かえ」と命ずる書状が届くと、秀忠は上田城の攻略を断念。美濃への進軍を急ぐことに決します。

中山道の山道は厳しいことに加え、上田城で真田によって数日の足止めをくった徳川秀忠は、9月15日に関ヶ原で起こった大合戦に間に合うことができませんでした。
上田城を落とすこともできず、結果として関ヶ原の戦いにも遅参するという失態をおかしてしまった秀忠に対し、家康は激怒。しばらくは秀忠に対面することすら許さなかったと言います。

【関ヶ原の戦い後】幸村と昌幸はあわや死罪、しかし兄・信之の嘆願で…

敗戦後は高野山へ配流、貧しい隠遁生活。そして14年後の「大阪の陣」へ…


上田城での攻防戦は真田有利で終わったものの、日本を2つに分けた大戦は、関ヶ原の地で徳川家康率いる東軍の大勝利で終わりました。

関ヶ原本戦で主力になるはずであった徳川秀忠率いる3万8000千の軍勢を遅参させた真田の罪は重いとして、家康は、真田昌幸・幸村父子を死罪を命じます。
しかし、東軍に属していた幸村の兄・信之は、自らの命を捨てる覚悟で助命を嘆願。信之はこの戦で6万8000石の加増と上田城主の座を与えられましたが、父と弟の命を見捨てられず2人の助命を願い出ました。


家康は、信之のその孝行心と軍功に免じて命を取ることはせず、真田昌幸・幸村父子を高野山へ幽閉、蟄居を命じます。
わずか15人あまりの家臣と家族を従えて上田城を離れた真田昌幸と幸村は、以後、高野山を経て、九度山の地で長い長い隠遁生活を送ることになります。
命こそ助かったものの、高野山での隠遁生活は貧しく、大変厳しいもの。
昌幸は、いつか釈明され再起することを夢見ていましたが、願いは叶わず関ヶ原の戦いから11年後、その波乱の生涯を九度山で終えました。

父・昌幸の死によって、「再起」の遺志は幸村が継ぐことになり、その機会は、関ヶ原の戦いから14年後に大阪の地でめぐってくるのです。
そしてそのとき、兄の信之と幸村は、再度敵として相対することになります。

真田グッズ&関ケ原合戦グッズはココで手に入れよう

関ケ原駅前観光交流館 (いざ関ケ原)



2015年、JR関ケ原駅前に「観光交流館」が誕生! 関ケ原町の観光情報の発信拠点として、観光案内のほか、おみやげ物販コーナーや休憩スペーなどもあり。古戦場巡りの拠点として利用することができます。
物販コーナーには、ライトなファンからディープな歴史ファンまで満足できる戦国グッズがいっぱい。休日は多くの歴史ファンで賑わいます。

関ケ原歴史民俗資料館 ミュージアムショップ



歴史旅の出発はココから!武将の陣旗が目印の関ケ原町歴史民俗資料館では、「関ケ原合戦図屏風」をはじめ合戦に関わる武具(甲冑・大筒・火縄銃など)を公開。関ヶ原合戦時の東西両軍の陣形と戦の流れを電光で示した解説付きの大型ジオラマは、臨場感たっぷりで見入ってしまいます。

隣接する「ミュージアムショップ」には、戦国武将グッズがズラリ。
家紋入りの「ぐい飲み」は、使用はもちろんインテリアとして飾っても「粋」ですね。
  • 岐阜県不破郡関ケ原町大字関ケ原894-28地図
  • 9:00〜16:30、(11〜3月は9:00〜16:00)
  • 月曜休(祝の場合は翌日休)・祝翌日休、年末年始(12/29〜1/3)
  • 50台(共同)
  • 0584-43-2665
  • ミュージアムショップは入場無料、資料館は大人350円、小人200円(20名以上:大人250円、小人150円)
  • http://rekimin-sekigahara.jp/

関ケ原町公式の戦国グッズがインターネットでも購入できます

西美濃ショッピング 岐阜県西美濃地域のオリジナル商品を販売する「西美濃ショッピング」では、関ケ原町公式の戦国グッズをインターネットから購入することができます。
関ケ原の戦いゆかりの武将の家紋Tシャツや武将ミニのぼり旗、関ケ原合戦図屏風まで、戦国気分がぐっと高まる商品を取り揃えています!

関ケ原観光協会の公認ユニット「仁王」のCDの販売も開始!心と心を大切に思いやる気持ち「和心」を詠って伝えるアーティストさんです。
  • グレートインフォメーションネットワーク株式会社
  • 0584-74-8861
  • 24時間
  • ※受注業務:月〜金 9:00〜17:00
    ※土・日・祝祭日は受注業務はお休みとなります。
  • http://store.shopping.yahoo.co.jp/nisimino-shop/

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