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■大垣つれづれ
◇紅蘭が求めた古琴
 梁川星巌夫妻は弘化3年(1846)夏4月、大垣を発ち、伊勢を経て京都に至る旅に出る。前年、玉池吟社を閉じ江戸から帰郷してすぐの旅である。伊勢は津から上野を経て笠置へ抜ける道をとるが、この旅で妻紅蘭が琴(きん)の演奏の習得に夢中になる。これはいまこの風土で日常的にいう十三弦の琴(こと=こちらの本来の称は筝=そう)ではない。中国で東周のころ形が定まり、琴棋書画の第一として文人の座右に欠かせぬものとされた七弦の琴であり、琴柱(ことじ)や爪をいっさい用いず、絹糸を縒って造る弦を左指で押さえ右指で弾じて演奏する。全長は四尺ほど。中国から伝わり、平安時代にさかんに賞されたことがさまざまな物語や日記などの記述に明らかだが、その後、断絶し、江戸初期になって次に述べる東皐(とうこう)禅師の来日によって復活する。星巌やその若き友人、佐久間象山も弾じたことが知られているが、星巌の妻紅蘭は奏法を本格的には教わっていなかったようで、この伊勢の旅で習得に夢中になったらしい。星巌はその様子を『西帰集』中に次のように記している。
 「東皐師琴法、四方に流伝。南勢(南伊勢)の一派、最も其の精を得。内子(妻のこと)、星野、緒方、山北三子に従いて指法を受け、旦夕(たんせき=終日)習玩、寝食を忘れるに至る」。それで皆がどうかしていると言うほどの有様だと。東皐心越(しんえつ)禅師は清朝に抗して延宝5年(1677)、日本に亡命した明の禅僧(曹洞宗)。七弦琴、漢詩、篆刻、隷書など文人としての教養すぐれて豊かな人で、水戸光圀の厚遇を得て江戸と水戸に住まいし、中国の文物に関心を寄せる人々に大きな影響を与えた。とくに琴については、江戸詰めの津藩士にその琴法を継ぐ者があり、さらに伊勢の商家からも名手が出るに及んで、祖とする東皐禅師から津地方の弾き手に伝わった琴曲に「伊勢伝」の名が被せられるほどだったようだ。星巌もそれを認めて妻の教育を津の人々の手に委ねたのであろう。それにこの時代、女性が琴に夢中というのも珍しく見えることであったろう。夫妻が津を去る時の宴では、斎藤拙堂以下、集まった皆で王維の旅立つ友人を送る有名な詩を琴に合わせて唄い、その結句「西のかた陽関を出づれば故人(知己)無からん」を三唱したという。
 紅蘭はこれ以後、どうしても良い琴を手に入れたいと思うようになったようだ。それが知られてか、嘉永5年(1852)4月、彼女49歳のとき、ある商人が夫妻の京の住まいにいかにも古びた琴をもって訪ねて来、これは大変な出物ですと言う。それは一見してただものでないと思わせるもので、古琴の漆塗りの表面に重んじられる微細なひび割れ=断紋に、それも最高とされる小さな梅花形までが現れており、夢中になった彼女はついに自らの簪や着物を売り払ってこの琴をわがものにする。この琴の裏側には「老龍」の銘が入っており、さらに「笑倣煙霞」(しょうごうえんか=山水を凌ぐ)と印の形で彫り込まれている。幸いにいまに伝わり、星巌家三遺物の一として大垣市に保存されているのがこの琴である。紅蘭は「買琴歌」一首を賦し、さらに「琴を買いて試みに一曲を弾ず」詩をこれに添えている。その結句に「水おのずと東流し、琴に古声あり」と。唐の古琴がいまこの東の地に来たっていにしえの音を伝えると言うところであろうか。
2018.2.26

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