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■大垣つれづれ
◇小笠原諸島を描いた宮本三平
 文久元年(1861)、幕府は180年ほど前にも巡検司を派遣した小笠原諸島に海防と開拓を進めるための調査団を派遣するが、外国奉行水野忠度を長とする90名ほどのその団員に宮本三平(1825−1887)が加えられていた。彼の役目は西洋医学の知識をもつ蘭医(本草に詳しい漢方医も加わっている)であると同時に、画才を活かして島の絵図や物産を描くことにあったが、むしろ後者が主と思われる。彼が幕府に提出した折本「小笠原島真景図」乾坤と「小笠原島所産鱗介図」完(22種の魚と16の貝類)の3冊は国立国会図書館に所蔵され、「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能であり、彼がその役を十分に果たしたことを物語っている。彼は大垣藩医である田結(たゆい)家の出で同じく藩医の宮本宗伴の養嗣子となったようである。宗伴は詩歌や茶道、囲碁、三絃など多趣味のひとで、それを活かすために自ら江戸詰めを求めたと伝えられ、三平の絵画への関心も彼の影響によるところがあるかも知れない。
 宮本三平が調査団のメンバーとなった背景には、彼が幕府が設立した蕃書調所(洋書の読解と洋学の研究教育)の絵図調方に出役していたことが挙げられよう。はじめ語学中心に創られたこの組織は、欧米の画法会得の必要性を認め、製図・測量・透視画法・石版画・地図制作といった分野にも目を配り、画学局を創設するに至るのであって、その中心に居たのが洋画研究で知られる川上冬崖であった。のちに「鮭」の絵で知られる高橋由一もまた宮本と同じ部局に居た。新政府は幕府時代の実績を継ぐ形で新しい学制を固めたので、宮本は『図法階梯』や『画学本』、『小学普通画学本』といった最初期の画学のテキストの編著に従事する。彼は教師を養成する師範学校の教員にもなり、昔はどの学校でも見られた教育用掛図の制作も手掛けている。宮本は川上同様、自らの画塾を開いたほか、印刷工房「三平堂」を開設、多方面の印刷物のデザインと制作も引き受けたようだ。
 この宮本を頼って明治12年(1879)、大垣から渡部(わたなべ)家の長男鍬太郎(くわたろう)が上京、その門下に加わる。渡部家はもともと大垣藩士の家柄だが、廃藩後の父親はもっぱら画業に専念し、叔父にも南画家が居た絵心のある血筋のようである。金秋の雅号をもつ鍬太郎は初め宮本に従って教科書の制作にも携わったようで、『小学人体画学本』を著したりしているが、明治14年(1881)、幕府の薬園を引き継いだ小石川植物園の画工(技手)となり、西洋の植物図鑑の技法を熱心に学んで今日の研究者をして讃嘆させるほどの精密で正確な植物画を遺すに至る。この鍬太郎の弟、三男審也がまた明治23年(1890)、15歳のときに兄を頼って上京、浅井忠や松岡寿が指導する明治美術会の教場で洋画を学ぶ。とくに浅井忠に私淑して卒業後も彼に師事、東京美術学校の教授となる浅井の助手を務めている。審也は早くは兄を手伝って図画教科書の挿図を描いたりしているが画家として自立、明治太平洋画会(太平洋美術会の前身)の創立メンバーとなり、出世作となった「猿曳」等の作品を発表するほか新聞挿絵画家としても活躍している。この渡部兄弟の導き手となった宮本のような人々の維新前後にわたっての活動には、幕末の人材の豊かさとそれを発掘登用する組織の存在の意味をあらためて考えさせるものがある。

 なお渡部鍬太郎の活動については蔵田愛子氏の克明なご研究(2015年)に負うところが多く、記して謝意を表します。
2016.9.20

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