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■大垣つれづれ
◇脇水鉄五郎の『日本風景誌』のことなど
 久しぶりに脇水鉄五郎の『日本風景誌』を書棚から取り出してみた。以前、日本の風景論の系譜を追ったときに、志賀重エの『日本風景論』などと共に求めたものである。脇水は大垣の出身で、慶応3年(1867)すなわち維新の前年に大垣藩士の家に生まれている。明治に入って大垣は各界に名だたる学者を輩出、「博士の町」と呼ばれたようだが、彼もその一人に数えられよう。帝国大学理科大学地質学科を卒業、新設の帝国大学農科大学に所属した。当時2年間の海外留学の決まりがあり、彼はオーストリアとイタリアを択び、森林土壌学と砂防治水を学んで帰国した。大正6年(1917)農科大学教授となり、同8年に理学博士の学位を得ている。昭和3年(1928)に大学を退官してからは文部省の史跡名勝天然記念物の調査にかかわり、国立公園の審議にも携わった。
 昭和14年(1939)に刊行された『日本風景誌』は、そうした昭和初期の彼の活動の中で「風景」や「国立公園」などといった雑誌に寄稿した論説を蒐めたもので、富士箱根や日光、伊豆西海岸、瀬戸内海、阿蘇、南紀、佐渡、天草、隠岐、耶馬溪といった景勝地について、いま見る風景がどのような隆起沈降あるいは浸蝕などの活動の結果として生まれたかを専門用語も交えながら説き明かしている。以前通読したときは、日本の風景は世界に冠たるものであり、これを賞する日本人の感覚はまことに高尚であって、殺風景な土地に住んできた西洋人と比べ一日の長があるといった日本大賛美の総論にいささか辟易した覚えがあるが、明治天皇が巡幸の途次、小休止した所にまで標柱を立て史跡とした(脇水はこの委員会にもかかわった)時代の著述であることを考えれば、背景となる空気が読めなくもない。そのこと以外はこの本は旅の案内として高級な出来であり、彼がとくに峡谷と海岸の浸蝕の風景に心惹かれていたことが良く伝わってくるし、挿入されている奇岩の写真は読者をして旅に誘うに十分な迫力を持っている。
 彼は地質学を専門とする関係上、各地をあまねく旅したであろうが、とくに文部省の委員になってからは、申請される景勝の調査に出かけることが多かったようだ。そうしたとき、偉い先生ということで、地元では頼山陽における耶馬溪の如く、何か立派な名をと所望することがあったらしい。天草では天草四郎の出陣伝説から手杓子(てしゃくし)山という名があるところに千巌山(せんがんざん)と命名し、すぐ木地師のことが想起される六郎次(ろくろじ)山を大観山という名前に変えており、他でもあちこちで同様なことがあったようだが、これは如何なものだろうか。地元大垣については、豊かな伏流水を自噴泉として末永く使うには工場などが汲上げ過ぎないのが大事と警告したようだが、これは残念な結果に終わった。他に全山石灰岩の金生山の最初の調査報告や明治42年(1909)7月24日の隕石雨の産物である美濃隕石についての論説などがある。ところで先述した史跡名勝天然記念物の指定のうち、名勝というジャンルを加えさせたのは自分だと脇水は言っているが、もし彼がいま生きていて、生地大垣の船町湊がその名勝に択ばれたと知ったらさぞ驚くことだろう。名勝の概念が脇水の時代とは変わってきているのである。
2016.6.20

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