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■大垣つれづれ
◇喧しかった戸田の辻番
 篠田鉱造という人が居る。明治4年の生まれだから、幕末江戸の岡っ引を主人公にする『半七捕物帳』を著して捕物帳小説の元祖となった岡本綺堂の一つ年上である。二十四歳で報知新聞社に入っていろいろ新機軸を打ち出し注目を浴びるが、明治も終わり近い三十年代の半ば、古老に幕末の思い出噺を語ってもらい、それを紙上に連載して好評を博した。同じころ、放っておけば霧散してしまう幕末の記録をまとめる努力があちこちに見られるが、のちに『幕末百話』として一本にまとめられる篠田のものは、貴顕や有名人の回顧録ではなく、市井の人々の記録である点が貴重と言える。いまでは昭和4年に刊行された『増補・幕末百話』を岩波文庫版で入手出来るが、大垣戸田藩江戸下屋敷の辻番が威張った話が、「昔の交番・堀の辻番」の項に載っている。
 この話を紹介するには、まず辻番が何たるかを語る必要があろう。江戸の町方では町ごと、あるいは二、三の町が一緒になって番屋を設け自身番を置いていた。地主たち自身が番に立ったのが名の由来のようだが、実際は書役・定番(じょうばん)が株で売買されて実務にあたった。半七捕物帳の第一作である「お文の魂」で半七が取調べたい者を一時、留め置くのに利用する番屋は小ぶりのもので、自身番の佐兵衛親方が五十くらい、手下の定番の伝七、長作の二人もともに四十を越えた全員独り者である。これは町方の場合で、武家屋敷の周囲には代って辻番が居て、その詰所たる番所がある。辻番は費用の持ち方で、幕府がもつ公儀辻番、各大名が自前でもつ手持辻番、複数の大名・旗本が共同でもつ組合辻番(寄合辻番とも)があったが、最後のもの、とくに旗本のそれは株で売買され、鹿島萬兵衛の『江戸の夕栄』によれば、「壮者は稀にして老人多く」何かと通行人に文句を付け嫌がらせをする輩が少なくなかったという。
 『幕末百話』も、一般には「辻番は生きた爺父(おやじ)の捨てどころ」だが、結構大変な剣幕で暴力を揮う者もいたと言い、うるさかった例として吉原にも近い大垣藩下屋敷の手持辻番が引合いに出る。曰く、「二様の叱声をする。たとえば町人だと『通れ』とか『黙れ』とかいうし、武士(さむらい)だと『通らっしゃい』、『黙らっしゃい』という。コレでよく争論が起る。ツイ間違って辻番が武士へ対し『黙れ』といえば喰って懸り、騒ぎが持上がるんです。大音寺門前の戸田の辻番も喧しい。謡をうたうと『黙らっしゃい』と叱り、ドド一(どどいつ)を唄うと「黙れ」といったもので」。この辻番の番所はどこに在ったか。大垣藩の下屋敷は、いま日暮里駅から錦糸町に向かうバスが通る本町通りと、これに直交する国際通りに沿ってあり、この界隈に樋口一葉が住んだ明治20年代の絵図によれば、二つの通りが交差する角に交番があって火の見櫓が立っている。交番の制度が生まれたのは明治7年で、いまやKOBANとして外国にも知られるユニークな施設の発想は、幕末の自身番・辻番の存在によるところがありそうだし、建物の再利用の可能性を考えれば、もともとそこに番所があったのではなかろうか。『幕末百話』には一杯機嫌の武士連中が「黙れ」と言った神田和泉橋の寄合辻番を袋叩きにした乱暴話も載っている。
2016.1.18

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