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■大垣つれづれ
◇鉄心の無何有荘のたたずまい
 幕末大垣藩のリーダーであった小原鉄心の別墅(べっしょ)である無何有荘(むかゆうそう)は、語られる割には意外とその全貌が分かる写真や絵図が伝わらない。しかし城北、林村に在ったその建物と庭の様子をいきいきと伝える文章と絵が存在する。鴻雪爪(おおとりせっそう)の著書『山高水長図記』である。彼が訪れたその日、主の鉄心は神楽見物にほかの屋敷に行って不在。数人の若い友人たちと連れ立った雪爪は、勝手知った荘の扉を押して入り、主たる棟である大醒榭(たいせいしゃ=大垣市奥の細道むすびの地記念館敷地内に保存)に上がって、いつも使っていたらしい円瓦を枕代わりに寝ころがる。「木々は青々として鳥の鳴声が心地よい」。童子ににごり酒を求めに行かせ、焼き筍と梅でつまみを整える。そこへ鉄心からの詩が届く。韻を合わせてこれに答えようとするが、あいにく紙が無い。ありあわせの木片に記したり、中国の懐素(かいそ)の故事にならって芭蕉の葉に記したりする。「庭の中を散歩すると、蓮池、茶畑、花壇などが、あちこちに整えられている。榭の傍らには梅があり、それに竹むらが寄り添うのがまことに好もしい。北面の窓を開いて望見すると、水を張った田がどこまでも拡がっている。山々の姿も美しく、遠くには恵那、金華山、また近くには赤坂(金生山)、岡山(勝山)が数えられる」。建物も夏は連子窓を涼しい風が抜けるようになっているし、冬は深い軒庇が暖を護る造りである。「額や聯は知人の筆になるもので、同室して会話している趣がある。懐かしいここを再訪すると、樹木や草花が以前にもまして繁茂し、かきつばたや薔薇が美しく咲き誇っている。いまや夕日が山に隠れんとし、鐘の音(ね)が林を渡って来る」。
 鴻雪爪は大垣の曹洞宗古刹、桃源山全昌寺25世。この無何有荘訪問は慶応元年(1865)4月17日(新暦に直せば5月11日)のことである。鉄心は3歳年長の雪爪と親しく交友、また師として深く尊敬した。この訪問記の後半は大垣での知友評になっており、そこに鉄心とは「死生の交わりを定めた」と記している。鉄心の別墅(べっしょ)を『荘子』から引いて「無何有荘」と命名したのも彼である。備後因島(いんのしま・現在は尾道市に属する)に生まれた雪爪は6歳で津和野大定院の無底和尚のもとで得度、和尚に従って25歳の時、大垣に来た。全昌寺の住職になったのはその8年後の弘化3年(1846)である。雪爪の令名は広く各藩諸侯の知るところとなり、安政5年(1858)2月には松平春嶽の招きで福井の孝顕寺に移り、さらに慶応2年(1866)には井伊家の招聘で彦根の清涼寺に移っている。雪爪は維新直前の慌ただしい時期の京都、さらに維新後の東京で、三条実美、岩倉具視、木戸孝允、鍋島閑叟、大久保利通らと国事を談じ、とくに新政府が宗教取扱いの方針を定める上に大きな影響を与えた。50代で亡くなった鉄心と違い、雪爪は91歳まで生き、明治27年(1894)、81歳の折に自らの生涯を振り返っての随筆集『山高水長図記』を刊行した。22歳から80歳に至る59年間の出来事が上中下3冊48編のエッセイに編まれている。紹介した内容は上巻所載の「無何重過」、福井に移って十年目に52歳の彼が大垣再訪の折の回想にあり、全景の挿絵が付されている。
全景の挿絵
2015.12.21

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