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■大垣つれづれ
◇大垣藩御用達の呉服屋
 用があって昭和の桂離宮大修理の整備記録を読んでいたら、大垣戸田家初代の戸田氏鉄(うじかね)の名に出会った。襖の下張り紙に彼の名が在るというのである。襖の下張りというと、さる文豪の作と噂される『四畳半』を思い出される方があるかも知れないが、襖はこの下張りをしっかりするのが大事で、強度も出るし、また唐紙が湿気を吸って波打つのも防げるのである。京都の南郊にある桂離宮の建物は建って三百数十年、当然だが痛みが激しく、それで昭和51年(1976)から57年まで6年かけて全面的な大修理をすることになった。これでそれまで推定するしかなかった桂離宮の建物群の建設経過が明らかになり、雁行する四つの棟のうち、古書院が17世紀初めに完成、ついで中書院の棟、さらに楽器の間と新御殿の棟が17世紀半ば過ぎに建設と、3度にわたって建築が行われたことが判明した。今回の修理は徹底的なものだったので、唐紙も当初のものを復元して張るということで、下張りもすべて剥がしてやり直しとなり、新御殿の襖の唐紙を剥がしたところ、氏鉄の名が出る下張りが現れたという訳である。下張りには不要の紙が利用される訳だが、新御殿のそれはほとんど商家の大福帳、売帳、買帳といった帳面類が用いられていた。『四畳半』の下張りはうまく話が続いて読めたことになっているらしいが、こちらは帳面をばらし、それをあちこちに分散して使っているうえに、話の筋というものが無い帳簿なので、もとの形を推定するのは並大抵のことではない。
 幸い整備記録はこの面倒な作業を行った結果をまとめてくださっていて、それによると商家の名が分かるのは2軒、そのひとつが大文字屋(この名の店は多かったらしく、大丸の前身である同名の呉服屋はまだ誕生していず、それとは別のようだ)で、この店の大福帳かと思われるものに「あまか崎さもん様」の家臣に誂えの長袴を「後卯月廿五日」に届けたとあるという。「さもん」は戸田氏鉄で、尼崎のまえ、膳所(ぜぜ)転封のとき左門と名乗った。「後卯月」は「閏四月」。彼は寛永12年(1635)に大垣に転封になるので、その前で閏4月があるのは寛永3年(1626)、別に寛永18年という年号の記載もあるので、帳簿が使われていた時代がだいたい掴める。整備記録によると、摂津尼崎藩主戸田家はこの商店と頻繁に取引をしていたらしい。茶屋四郎次郎や公家の万里小路(までのこうじ)家、酒井雅楽守(うたのかみ)永井信濃守などとも取引があったようだから、かなりの大店(おおだな)だったのだろう。戸田家が大垣に移ってもこの繋がりはおそらく残って、澤田ふじ子が『染色曼荼羅』に京の町には富裕そうな呉服屋が何軒もあって、何れもが「美濃大垣藩戸田家呉服所」といった看板を下げていると描写したようなことになっていたのであろう。1981年に刊行されたこの本に20年後くらいに出会って、「なぜ大垣」と思ったのがきっかけで、私は彼女の「大垣もの」の長短編に親しむことになったのだった。それからかれこれ15年、京都にお住まいのゆえか、最近、大垣や大垣藩京屋敷が舞台となる作品が少なくなってきた気がするのは淋しい。澤田さんの「大垣もの」については、またの機会に触れることにしよう。
2015.10.19

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