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■大垣つれづれ
◇大槻磐渓が出会った大垣人
 大槻磐渓(1801−78)というひとがいる。蘭学者である父玄沢と日本語学者で『言海』をまとめた子文彦に挟まれて、現代では知る人が少ないようだが、幕末に漢学者また砲術家として知られたひとであり、故郷一ノ関駅頭に大槻三賢人として三代の胸像が飾られている。彼は生涯に幕末大垣の著名人たちと接点をもった。出会った順に云えば、江馬蘭斎、江馬細香、梁川星巌・紅蘭夫妻、小原鉄心ということになろうか。父玄沢は江馬蘭斎より10歳若いが、号に見えるように杉田玄白と前野良沢の弟子で、つまり蘭斎とは同門の蘭学の泰斗。息子をオランダ渡りの学問をきちんとした漢文で伝えられる人間にしたいと漢学に向かわせた。江戸で生まれ育った27歳の磐渓が西に旅する時、父は錚々たる知人50余名あての紹介状を持たせる。その中に蘭斎があって、おそらく彼から娘がいま京都と聞いたのであろう。文政10年(1827)3月、磐渓は細香の京都の仮寓を訪ね、彼女に案内されて頼山陽に会い、翌日は山陽たち大勢での花見に加わらせてもらう。磐渓は14歳年上の細香の才と人柄にすっかり参ってしまったようで、日記に最高の賛辞を連ねている。
 次は星巌夫妻。天保5年(1834)、46歳の星巌は江戸神田のお玉が池に玉池吟社を開き、優秀な門弟を集めて詩壇に確固たる地位を築くが、磐渓は詩の師は星巌と述べるまでに、この星巌の教室兼居宅に足繁く通ったらしい。もちろん磐渓は詩人としても知られ、次の鉄心との関わりはそれによるものであろう。鉄心は当時流行の書画会を自らも開くのを楽しみにしていて、とくに冬至の日に江戸滞在のときは、溜池の大垣藩上屋敷で会をもつことにしていた。磐渓はそうした折に欠かせない存在で、安政6年(1859)2月、鉄心が荒天の日に深川で会を計画したときは、磐渓と高島秋帆の二人が芝浦の鉄砲調練場か、あるいは木挽町4丁目の磐渓宅に居たかで、鉄心と新橋の汐留橋で落合い、風雨をものともせずに舟で会場に向かっている。磐渓は20代の末に長崎に旅した折に秋帆を識って終生の友としたのであり、砲術を学んだのもこの縁からである。
 磐渓はスクラップブックを作っていて、好奇心の赴くまま25年ほどのあいだに12冊をまとめており、細香が贈った詩片も貼り込まれている。これについては工藤宜(よろし)氏が『江戸文人のスクラップブック』に全貌を紹介されているが、その中に気になる部分がある。幕末の文人のあいだに手紙袋(いまの封筒)に装いを凝らすのが流行ったが、安政5年(1858)、桂川主税(ちから)が磐渓あてに出したのが柳河春三(しゅんさん)のデザインになるもので、表の縁取りに各月の大小の別以外に、西暦や中国の暦年、アメリカの独立から数えての暦年などが刷りこまれている。いかにもハイカラ好きの春三好みの柄である。これを見て磐渓が翌年、注文したらしいものが残っていて、それに「鉄心居蔵」とあると工藤氏が書かれ、春三宅の呼び名かとされているが、あるいはこれは鉄心註文分の流用ではないだろうか。安政5年の冬至日に鉄心主催の書画会が開催されており、磐渓も参加している。たとえばそんなとき、鉄心が春三作の封筒を見ることがあって、「私も」となったのではないか。鉄心という号はそうやたらにないと思うのだが如何だろうか。
2015.7.21

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