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■大垣つれづれ
◇不思議な随伴者曾良
 芭蕉の奥の細道の旅に5歳年下の曾良が随行したのは誰しもが知るところである。芭蕉は「曾良は河合氏にして惣五郎と云へり。芭蕉の下葉に軒をならべて予が薪水の労をたすく」と記している。この曾良が丹念に付けていた道中の詳細が知れる日記が残っていて、それによって芭蕉が実際の旅を下敷きに作品としての『おくのほそ道』をどのように造り上げたかが分かったのだった。芭蕉の旅の随伴者が当初予定された路通だったら、こんなふうにはいかなかったろう。曾良の細かい気配りと几帳面が旅を円滑に進め,また後世に貴重な資料を遺してくれたのである。私は以前、この日記の内容がはじめて公開された昭和18年刊の『曾良奥の細道随行日記』を入手して興味深く読んだ。この本には岩波文庫本では大垣出発のところまでしか載せていないその後の曾良の旅の記録があり、曾良が芭蕉との旅のために用意した訪れるべき神社や歌枕などのリスト、旅中での俳諧の書留め、曾良の元禄4年の近畿の旅の記録なども載っている。これらすべてが一冊の書留帖に記載されているのであり、いまではその影印本も刊行されている。
 近年、この曾良の日記に真正面から取組んだ研究書を金森敦子氏がものされた。『曾良旅日記を読む―もうひとつのおくのほそ道』である。金森氏は先に『芭蕉はどんな旅をしたのか』を著された方であり、新作も芭蕉・曾良二人の旅の実態を同時代の資料も縦横に駆使して生き生きと描き出した労作であって、新しい知見がたくさん盛り込まれているが、ただ私が曾良について年来、不思議に思ってきた事柄は、あいかわらず謎として残っている。その一つは曾良は何をして生活していたひとかということである。若いとき、親戚が住する伊勢長島の大智院に居たことは確かで、あと62歳のとき、幕府の巡見使の随員として九州方面に赴き壱岐で客死したほか、職に就いたことを伝える資料がない。金森氏は今回、彼が吉川惟足(これたる)に学んでいることから各地でフリーの神職として働いたのではと推察されているが、他に考えようがないということで、それを証しするものがある訳では無い。彼は地誌編纂の関祖衡や並河誠所と知己だったようで、このあたりから幕府隠密説も出るのだろうが、隠密にしてはいささか目立ちすぎである。
 もうひとつの不思議は彼の日記における時刻の書留めである。江戸中期の日本に彼の日記ほど細かく時刻を記した資料はない。彼は子丑寅卯の十二支で時刻を記すが、大垣を9月6日の辰の刻(午前8時前後)に出た舟が「申の上刻」(午後3時ころ)杉江着というふうに、2時間ほどの幅がある一刻を上中下3つに分けて記述するのである。『時計の社会史』で角山栄氏は当時のガイドブックに紙縒りを立てると簡単な日時計になる仕掛けがあったりしたが、雨や曇天にもかかわらず記述があるからこれではないとして、時の鐘の普及に触れていられるが、これまた芭蕉たちの旅がそれに恵まれていたとは思えない。同じころ、ケンペルは最新のオランダ製懐中時計を持って東海道を旅して細かい時間を測っているが、そんなものが芭蕉の手に入る筈はない。金森氏は曾良には大体の時刻を読む特別な能力があったとされているが、そうとしか言いようがない、これもあいかわらずの謎である。
2015.5.18

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