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■大垣つれづれ
◇明治41年の団体旅行
 ずっと以前のこと、東京の古本屋で『世界一周画報』という題の本を見つけた。明治41年(1908)9月に朝日新聞社が刊行したものである。日本でのパック旅行の先駆けといったところだろうか。トーマス・クック社が手配をして60人弱の団体が3か月ほどかけて世界一周を試みた記録である。この年の3月8日、横浜を出港してハワイ経由でサンフランシスコへ、大陸の横断は列車の乗り継ぎでシカゴを経由して東海岸へ、ニューヨークから汽船でリバプールへ、ロンドン、パリを訪れて列車でイタリアに向かい、ジェノヴァ、ローマ、ナポリからヴェネツィア、バーゼル、ベルリン、サントペテルブルク、モスクワと回って12日間のシベリア鉄道の旅でウラジオストックへ、ここから大阪商船の船で敦賀6月21日着という日程である。
 大垣に来てのある日、このとくに何のためというあてもなく求めたいささか大げさな本のページをふと繰っていると、「一行中横浜の野村夫人は敦賀迄出迎へし野村洋三氏と共に郷里に立寄るべく大垣に、佐分君は一ノ宮駅に下車す」とあるではないか。野村洋三と言えば横浜で外国人向けの美術商サムライ商会を営み、のちにホテル・ニューグランドの会長にもなったひと、またその夫人美智子氏は東洋英和を出た才媛で横浜YWCAの活動などで知られるひとだが、彼女がこの旅行団の3名の女性参加者の一人だったのだ。迂闊にも私はそれまで野村洋三が揖斐郡大野町出身と知らなかった。彼はまさに立志伝中の人で、少年の時から海外での活躍を考え、さまざまな職業について英語の才を磨く。早稲田の前身である東京専門学校を卒業した彼は、通訳の仕事で幾度かアメリカに往き来したのち、美術商になることを決意、横浜に野村ありと目される存在になったのである。彼が原三渓と親しかったのも、二人に共通する横浜の街に対する愛とともに、また同じ美濃の出身ということがあったろう。原三渓をアメリカのコレクター、鉄道王フリーアに引き合わせたのも野村であり、美智子夫人はこの旅行の一日、一行と別れてデトロイトにフリーア邸を訪れている。このフリーア邸の自慢のものにイギリスから移設した孔雀の間があり、これにヒントを得た野村はサムライ商会に鶴の絵を配した鶴の間を造って応接室とした。残念ながらこれは大震災で建物ともども壊滅した。
 さて大垣で東京に向かう一行から別れて下車した夫人は、おそらく洋三氏の実家まで赴くことは無かったようだ。というのも、『世界一周画報』には、横浜の平沼駅に、東京に向かう一行が乗った列車の通過に3時間半ほど遅れて野村美智子夫人が着き、「横浜の紳士夫人令嬢三百余人出迎へ非常の光景」と記されているからだ。当時、いまは桜木町駅となっている鉄道開通以来の旧横浜駅が場所的に不便ということで明治34年に平沼駅が開設され、現在の横浜駅が大正4年(1915)に営業を開始するまで使用されていたのである。また東京に向かう野村夫人以外の関東の参加者を乗せた列車が到着したのは新橋終着駅であった。東京駅の開業は大正3年(1914)のことである。
2015.2.16

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