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■大垣つれづれ
◇梁川星巌の芭蕉像賛
 梁川星巌が芭蕉を語る珍しい詩がある。「芭蕉像賛、黙池生ノ為」と題するもので、読み下せば、「僅カ十七字ニシテ宛(あた)カモ天工 能ク人情ヲ写シテ国風ニ近シ 持シテ村婆ニ示スモ皆解了ス 香山後世是レ蕉翁」となる。訳せば「僅か十七字が造り出す妙 人情を写し得て国風の感あり 村婆たりともすべて了解 芭蕉はまさに白楽天の再来」といったところか。国風は『梁川星巌全集』の注では和歌とするが、やはり『詩経』国風ではなかろうか。国風は万葉集の東歌にも似て周の諸地方のお国振りの歌、もっとも男女間の恋情を謳うものも多く、芭蕉の句とは少し思いが違う感があるが。香山は「長恨歌」で誰もが知る中唐の詩人、白居易すなわち白楽天。彼の詩は明快で分かりやすいが、それは詩が出来ると、つねに文盲の老婆に読み聞かせて彼女が分かるまでに推敲したからという伝えへの言及である。芭蕉は彼の生まれ替わりとするのである。
 この詩が作られたのは弘化3年(1846)。星巌の書簡集を探すと、翌弘化4年正月9日に「看雲主人」に充てたものが採録されている。その冒頭に「新禧(しんき)奉賀候。小生無事鴨水上(鴨川べり)にて迎春、客冬臘月(去年12月)、上野発程、木津川を下り、淀城に一宿、五日午後に入京、黙池宅に十日寄食、十五日木屋町二條下る印舗座敷へ移候」とあって、伊勢、伊賀を経ての旅のあと京に入り、黙池宅に12月の5日から15日まで逗留したおりに賦されたものと分かる。中島黙池は芭蕉の句の集成である『俳諧袖珍抄』(嘉永4−5)の編集で知られる幕末京都の俳人である。このとき彼の家で芭蕉像の一幅を見せられ、賛を求められたのであろう。
 漢詩人の星巌がどうして俳人の黙池と知り合いなのかは分からないが、この芭蕉についての詩は星巌の詩一般とくらべていささか生彩を欠くように思える。褒めているのは確かだが、芭蕉のひらいた世界への踏み込みが無い。というより星巌は中国を規範とする漢詩にくらべての俳諧をあまり評価していないのではないかとさえ思われる。しかし芭蕉もまた中国を意識すること深く、とりわけ白楽天の『白氏文集』は座右にあってたえず参照したと思われる。芭蕉は其角が編集した『虚栗集』の跋文に「白氏が歌を仮名にやつして、初心を救ふたよりならんとす」と記している。あるいは本当はこういったこともすべて押さえたうえでの「香山後世是蕉翁」だったのだろうか。とすれば星巌の詩の読みもまた変わってくるのだが。ただ芭蕉と言えばまず旅のことが思い浮かぶ。連歌の宗匠のあとを受けて俳諧の宗匠たちが行なったあの諸国遍歴の旅を、いま柏木如亭、頼山陽、そして自分が行なっている。何かそのあたりに自らの感慨を込めての詩が賦せなかったものかと思う。そうすれば漢詩と俳諧という二つの異なるジャンルに架橋することが出来たのにと思う。しかしそんなことよりもまず、賛をお願いすると言って出された絵そのものが、そもそも彼の詩心にあまり訴えかけて来ないものだったのかも知れない。いやむしろそうであった可能性が高いようにも思うのだが。
2014.11.17

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