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■大垣つれづれ
◇大垣で救われた森永の創業者
 西洋菓子を日本ではじめて製品化したのは、森永製菓の創業者、森永太一郎である。しかし慶応元年(1865)生まれの彼が最初からそんなことを志していた訳ではない。彼の生家は伊万里でも一番の陶器問屋で、魚問屋も経営する裕福な家であった。けれども父の時代に家運が傾き、借財を抱えた父は6歳の彼を遺して亡くなってしまう。親戚の家をたらい回しになる彼は、将来、立派な商人になって家を再興しようと考え、紹介された陶器問屋で商いの道を躾られつつ、勉学にも励む。折から伊万里の陶器問屋仲間が共同出資で横浜に店を開くことになり、彼は勧められてそこに勤めることになる。20歳の彼はここで良き伴侶を得て商売にも才覚を発揮、順風万帆というところに不況の波が襲いかかる。伊万里の問屋仲間が手を引いた横浜の店は破産寸前で、森永は故郷の知人に助力を得るべく妻を連れて伊万里に赴くが、断られて横浜に戻ることになる。神戸までの船賃は何とか捻出できたが、あとは瀬戸物の継ぎ細工などで僅かな銭を稼ぐしかなく、若い二人はほとんど野宿同然の旅で横浜へと向かう。
 持ち合わせの無い二人が桑名から宮への船に乗れる訳が無く、中仙道に道を取って琵琶湖東岸を北上、垂井から美濃路に入って大垣に出、さらに揖斐川の佐渡(さわたり)の渡しまで来ると、睡眠不足と空腹に歩くのも限界で、持物を次々に売り払ってついに最後の衣服となった彼の筒袖半天を買ってくれる人を探して葭簀張りの茶店にたむろする若い村人たちに話しかけていると、50前後の禿頭の農夫が、二人の様子からたんなる物乞いではなかろう、今夜は私の家でゆっくり休んでとやさしい言葉をかけてくれ、食事に入浴と、始めて人間らしい一日を送ることが出来た。翌日、渡し場までの道中、この農夫は正しい道を歩むのが大事と二人を諭したという。無事横浜に着いたら知らせをと言うこの恩人の住所氏名を森永は手帳に書き留めたが、それを途中で失くしてしまう。三島宿を過ぎて箱根の坂を登っていくとき、月明かりに玉蜀黍畑を見つけ、空腹に耐えかねて思わずその何本かを失敬して飢えを凌ぐが、このときにほとんど空の財布とともに落としたらしい。箱根を越えた夜明け方に紛失に気付いたが、先を急ぐ旅ゆえ逆戻りは難しく、ついに恩人に礼状を送ることが出来ずにしまった。森永は大垣のこの老農の親切が忘れられないと言い、それゆえ岐阜県の人に懐かしさを覚えると述懐している。二十日余の旅程で、その半分は絶食同様という苛酷な旅を彼らが全う出来たのには、この途中での親切と励ましが大いに役立っていよう。
 森永の本格的な活躍はこののちで、まず外国商館への販売に見切りをつけ、陶器をアメリカでじかに売りさばこうと渡米する。この商売はまったくの失敗に終わったが、森永はこのとき生涯を決定付ける二つのものに出会う。西洋菓子とキリスト教の信仰である。一旦、日本に戻った森永は、再度渡米して大変な苦労を重ねて西洋菓子の製法を習得する。こうして明治32年(1899)、森永西洋菓子製造所が東京の赤坂溜池にオープンした。正直で妥協の無い彼の性格が人々の信用を得、はじめ2坪から始まった店が大きく発展、ついに今日の大森永の礎を築いたのは周知の通りである。生誕150年のこの年に、思いがけずどこか旧家の蔵から森永夫妻が大垣に泊まったときの記録でも見つかったりしたら面白いのだが。

9月7日まで佐賀市の佐賀県立博物館で、「生誕150年記念 森永太一郎展」を開催中です。今回の内容についても同博物館と伊万里市民図書館のご協力を得ました。
2014.8.20

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