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■大垣つれづれ
◇如亭との約束を守った梁川星巌
 江戸後期に柏木如亭という詩人がいた。詩集のほかに著作として『詩本草(しほんぞう)』が伝わる。全国の美味を評した文に漢詩を添えた本だが、滋味溢れる内容は各地方の情趣までを語って読む者を魅了する。食の本として有名なサバランの『美味礼讃』や清代の詩人、袁枚(えんばい)の『随園食単』はともに岩波文庫でたやすく求められるが、この如亭の傑作もまた岩波文庫に入っている。しかしこれを私たちが今日、如亭のまとめた再終形で読むことが出来るのは、実は郷土の詩人、梁川星巌のおかげなのである。如亭と梁川星巌がはじめて会ったのは、文化11年(1814)の暮から翌年の4月初旬にかけて如亭が江戸に滞在した折らしい。如亭、数えで52歳、星巌26歳の頃である。小普請方大工棟梁という家の職を棄て文芸と遊蕩に溺れる如亭は、その身をほとんど漂泊の旅に任せていた。星巌の生涯にわたる放浪癖と言えなくもない行動には、たぶんに彼が心酔した如亭の影響があると思われる。星巌はこの最初の出会いについて、のちに触れる『如亭山人遺藁』の跋文で「かつて忘年の契りを締(むす)ぶ」と言っている。26の歳の差など問題としない深い心の絆を得たと言うのである。
二人の最後の出会いはこの心情を確認するものとなった。文政2年(1819)春、大坂に行ったあと、一度、京の仮寓である荒寺に戻った如亭は、すぐ四日市へと向う。門人などに生活の資を求めての旅であり、しかも宿痾の水腫が悪化して余命いくばくもないことを自覚せざるを得ない状況にあった。四日市で星巌に出会った如亭は、「旧稿を整理してまとめてある。どうかそれを後世に伝えて欲しい」と告げる。星巌はこれを約し、伊賀上野に向う如亭と別れて自らは南伊勢に向うが、7月11日、如亭はついに京で没し、その報を受けた星巌はただちに京へ向う。京では浦上春琴(江馬細香の絵の師)と医師で頼山陽に親しかった小石元瑞が没後の始末を終えていた。
大坂の仕事に赴く春琴が如亭の遺した草稿を携えたという話に星巌はすぐ大坂に向い、詩集『如亭山人遺藳』と『詩本草』の原稿を入手、如亭との約束を守ってパトロンを見つけて『遺藳』を上梓、ついで『詩本草』を刊行して知人たちに配った。文政5年(1822)のことである。このとき星巌は『如亭山人遺藳』の序文を頼山陽に求めて初めて鴨川べりに水西荘を訪れる。山陽は星巌の8歳年長であったが、二人はたちまち意気投合したようだ。星巌はこの後、山陽とも辛い別れかたをするのだが、それは別の機会に譲ることにして、ここはひとつ『詩本草』の文を引いておこう。「越前の鱈、越後の塩引(鮭)、加賀の姫鰯、駿河の興津鯛、美なり。然れどもこれを若狭の小鯛に較ぶれば、なほ数塵を隔つ。鱈は嬌妻の如く、塩引は艶妾の如く、姫鰯は俊婢の如く、興津鯛は名妓の如く、小鯛はすなはち千金小姐(しょうそ・金持のお嬢さま)の如し。愛すべくして狎(な)るべからざるなり」。塩漬けの魚の味の比較である。如何なものでしょう。昔の遊び人のお喋りということで失礼の段は平にご容赦のほどを。
2014.3.17

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