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■大垣つれづれ
◇薄倖の才女矢部正子の生涯
 京の和歌四天王のひとりに数えられた歌人にして国学者、文章家として知られる伴蒿蹊(ばんこうけい)が著わした『近世畸人伝』については、以前、その円空の項に触れた(2012年12月)。この本には美濃出身の才女、矢部正子の短い伝記も載っている。伴蒿蹊が彼女を採り上げたのは、小澤蘆庵とのかかわりから彼女を知り、この才あるものの広く知られずに終わったひとの存在を後世に伝えようと思ったからであろう。ここでは種々の資料によって明らかにされたことも交えて、彼女の短い生涯を辿ってみよう。
 矢部正子は延享2年(1745)、本巣郡北方(きたがた)に生まれた。16歳のとき、安八郡結(むすび)の大平氏に嫁ぎ、翌年、女児を産む。しかし夫には愛人があり、宝暦13年(1751)、19歳の彼女は娘を連れて実家に戻り、母と兄とともに京に上る。彼女はここで22歳年長のこれも和歌四天王に数えられた小沢蘆庵に和歌と書を学んだ。当然、蘆庵周辺の文人とも親交をもった筈で、12歳年長の伴蒿蹊もその中にあり、また上田秋成に逢うこともあったろう。京では他に茶の湯、香道、礼法、長刀も学んだという。26歳のとき、肥後細川家の姫君に和歌や書などを教える侍女として迎えられ江戸に移る。明和7年(1770)のことであり、当時、病がちであった蘆庵は今生の別れとなるかと哀しがった。しかしお屋敷の覚えはめでたかったものの、才ゆえの厚遇が朋輩の嫉みを買っていじめられ、失語症になることまであった。こうして2年余の屋敷務めを辞め、勧められるままに和歌の家塾を開く。百人ほどの弟子が集まるが、今度は大火での類焼に危うく命拾いする。
 京に戻ろうというとき、母に預けていた娘が死亡、母もまた続けて亡くなる。世をはかなんだ28歳の彼女は出家して慧静(えじょう)と名乗り寂室と号した。翌安永2年(1773)9月18日夕刻、薄倖のひとはついにこの世を去り鳥辺山に葬られる。伴蒿蹊は「才能ある女性が往々にして薄倖なのは、妾薄命という詩題があるごとく、日本でも中国でも例が多いが、それがよく知る人のことなのが何とも哀れ」と記している。伴嵩蹊自身も家人が次々に亡くなって淋しい境遇にあり、身につまされるものがあったろう。『近世畸人伝』には、彼女が京に住まっていたとき、たまたま故郷に帰ることがあった、そのとき別れた以前の夫が、新しい妻とのあいだに子までいるのに、昔を忘れかねて便りを寄こしたのに対して、
  秋にあひて枯れにしものを今さらに何おどろかす荻(おぎ)の上風(うはかぜ)
という歌を返したというエピソードが記されている。「荻の上風」は荻の葉むらをそよがせて吹き去って行く風。10世紀に藤原義孝が13歳でものして連衆を驚かせた付句「荻の上風萩の下露」を踏まえる。百余首ほど遺る彼女の歌は女性らしい情景描写の美しいものが多い。その中から2つ、
  なく雁の声も遥かにへだたりて翅(つばさ)消え行く秋霧の空
  雪はまだ消えはてねども春山のみどりを添へて霞たなびく
2014.2.17

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