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■大垣つれづれ
◇大垣を訪れた若き日の白隠
 江戸時代中期の臨済宗の禅僧、白隠慧鶴(えかく)の名は、一般には彼が描いたたくさんのユニークな禅画で知られていよう。つい先ごろは東京でその大きな展覧会があって話題になった。この展覧を監修された花園大学の芳澤勝弘先生は、該博な知識と深い考察によって日本の禅学の世界に次々と新しい光を当ててこられた方だが、白隠については『白隠法語全集』15巻と『白隠禅画墨蹟』3巻を刊行され、さらに白隠禅画を分りやすく解説する本もいくつか著わされているので、それらに親しまれた方もあるだろう。芳澤先生は人によって好き嫌いが激しい彼の禅画に含まれる深い禅意を解き明かすとともに、彼が臨済禅中興の祖として重要な存在であることを説かれる。「いま日本に伝わる臨済禅の法系はすべて白隠下になるから、現在の臨済禅は文字どおり『白隠禅』といってよい」。それゆえ白隠を芸術家ではなく宗教家として捉えたうえで、その禅画に接しなければならないとされるのである。
 この白隠が若き日に大垣を訪れ、彼の生涯にかかわる体験をしたことが、明和4年(1767)、白隠83歳の年に刊行された自伝『壁生草(いつまでぐさ)』に記されている。
それによれば宝永元年(1704)春、20歳の白隠は檜村の浄見山瑞雲寺(現在の大垣市檜町在)に掛塔(かとう)する。ここに住する馬翁(ばおう)宗竹和尚が詩文にかけては並ぶ者がないという評判を聞いたゆえである。白隠はここで李白、杜甫の詩に親しみ、書画の手ほどきも受けたらしい。ただ馬翁は「美濃の荒馬」と言われるほど指導が厳しく、それに当時、パトロンを失って貧乏寺だったので、白隠と一緒に来た修行僧たちはたちまち逃げ出してしまったようである。
 この馬翁和尚はまた蔵書の数でも知られていた。土用の虫干しが終わった日、白隠が今後の自分の進むべき道について、ひとり思い迷っていたとき、縁の高机の上に二、三百のさまざまなジャンルの書籍がうず高く積まれていた。そこで白隠が焼香誦経三拝して諸仏神祇に「わが務め励むべき道を授けよ」と祈って目をつぶり一冊を引き抜くと、それが『禅関策進』であった。明代に編集された法語や禅僧の事績を集めた禅の修行者のための導きの書である。こうして人生の道に迷いかけた青年僧は生涯を禅の求道に捧げる決意をし、『禅関策進』を座右の書としたのであった。彼が瑞雲寺に居たのは一年ほどで、翌年の春には洞戸(ほらど)村(現在は関市に属する)の保福寺に移っている。この良く出来た話には年老いた白隠による脚色も若干あるかと思われるが、それにしても馬翁の寺への短い滞在中の出来ごとがやがて大成しての業績に繋がったと考えれば、人の世の機縁の不思議が思われる。
2013.11.18

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