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■大垣つれづれ
◇頼山陽邸の北隣の家
 文化8年(1811)閏2月、数えで32歳の山陽は京に入って私塾を開く。彼はそれから幾度も居を移すのだが、文政5年(1822)11月、三本木の花街のすぐ近く、鴨川に面した丸太町橋西詰めに水西荘を営んだ。愛する東山の景ゆえに択んだこの敷地に、6年後、四畳半が主室の山紫水明処と呼ぶ文人趣味豊かな離れが建てられる。いま往時の遺構として残るのはこの離れの棟のみだが、この山陽の屋敷のすぐ北に在った家が幕末の大垣の人々とかかわりが深かったことは、あまり知られていない。もっとも山陽は天保3年(1828)に亡くなったので、彼らが隣人としての山陽と顔を合わせるということは無かったが。
 この家の最初の持主は、京で活躍した陶工として高名な青木木米(もくべい)である。祇園新地の「木屋」の主でもあった彼の別邸であるからには、さぞ風雅な普請だったと思われる。庭に老松あるゆえに老龍庵の名があった。これを風流人の中島棕庵が夏の住まいに借りることがあり、彼はその間に鴨川の対岸、すなわち東岸に住むことを考え、二条新地に新居、銅駝余霞楼(どうだよかろう)を文政13年(1830)に営む。これと反対に東岸から西岸に移ったのが梁川星巌で、嘉永2年(1849)以来住んでいた、一般に星巌の住まいとして知られる川端丸太町の家「鴨沂(おうき)小隠」からこの家に移って来て「鴨沂水荘」と名づけるのである。転居の翌年、安政5年(1858)に70歳の彼がコレラで死んだのも、また妻、紅蘭が捕縛されたのもこの家でのことであった。
 星巌のあと、一、二度、持主が変わって、維新の激動の頃は、田能村竹田と並ぶ南画家として知られた谷口藹山(あいざん)の持物であった。藹山は小原鉄心が私淑した禅僧、鴻雪爪(おおとりせっそう)と親しかったらしく、維新の年に雪爪が京に入ったとき、この家を提供している。あの劇的な大垣藩の方針転換のあと、慶応4年(1868)3月から閏4月(この年は閏年であった)にかけて、鉄心と雪爪は京都に居たようで、雪爪の回想録『山高水長図記』には二人が嵐山や宇治などで諸藩士、公家たちと清遊したことが記され、さらに雪爪ゆえにさまざまな人々がこの家を訪れて、酒と議論の宴が重ねられたことが知られる。閏4月15日には、鍋島閑叟、長州藩の長松秋琴と雪爪、鉄心の四人で酒間に聯句を娯しみ、二日後の17日には、大久保利通、木戸孝允、由利公正、横井小楠、長州の広沢兵助に寺内暢三、名和緩(かん)、土佐の福岡孝悌(たかちか)という面々が集まっている。また岡鹿門は鉄心がこの家に頼支峯ら名士七、八十名を招いた宴があったことを付記している。3月半ばの勝・西郷の江戸城明け渡しの会談と5月半ばの彰義隊の戦いに挟まれた緊迫の時期における京での人々の動きが知られる興味深い資料である。
2012.9.18

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