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■大垣つれづれ
◇江馬細香と小原鉄心の交遊
 30歳、齢が違った細香と鉄心との情味備わった交遊は、大垣の幕末史の中でも特筆されるべき美しいエピソードであろう。頼山陽がいくら勧めても、生きているうちはと言って本人が出版を断わった細香の詩集は、『湘夢遺稿』と題されて没後10年目の明治4年(1871)に遺族の手で刊行された。鉄心はこれに序を寄せて、「馬細香は女丈夫、好んで古今を談じ、言、国家興廃の事に及べば、涙を揮って之を論ず」と書いている。「馬細香」は中国風に三字で名を記す風習から。細香は鉄心を手伝って安政の大獄の際に逃げてきた山陽の息子、三樹三郎を匿ったし、安政2年(1855)、蝦夷視察の帰途に大垣に立寄った長州藩士山縣半蔵らの話を大垣藩士たちが聞く会場に自らの屋敷を提供したりしている。まさに鉄心を助ける女丈夫だったのである。鉄心はさらに言う。「予と細香と天稟(てんぴん=生まれつきの才)の異、氷炭(炭は火を示す)の如し。而るに交誼の厚きこと膠漆(こうしつ)の如き」と。文久元年(1861)、自らの天命の尽きることの近いのを悟った数え75歳の細香は、鉄心に形見の二品を贈る。山陽の書幅と浦上春琴所持の古硯である。後者もおそらく山陽を介してのものであろう。細香の絵に田舎臭さが抜けないといって春琴を紹介したのは山陽である。
 生涯、詩を愛し共通の詩友をもった二人の交情の始まりもまた詩であった。天保12年(1841)の中秋の日に25歳の鉄心が細香に詩を贈り、翌13年、鉄心が家督を継ぎ藩政に参加すると、今度は細香が鉄心に祝いの詩を贈っている。おそらくこのあたりから二人は特別な心の繋がりを自覚するようになったのであろう。鉄心が大垣に詩社、咬菜社を興して社長に細香を推したときの詩に、「社長は是れ誰そ・・・馬細香。風月の胸中、清節を持つ。幽谷の蘭、芳を吐くに似たり」とある。鉄心は藩の財政を考えてのことか、大垣に公許の遊郭の開設を画したが、細香の激しい反対にあって、彼女の生存中は諦めたと伝える。藩の舵をとった鉄心も細香には頭があがらなかったのである。その細香が安政6年(1859)、折から江戸詰めだった鉄心に詩を送り、大垣に戻るよう促している。公務にある鉄心に無理な話だが、梁川星巌など知人の死や投獄に自らの老いが重なって、さすがの彼女も心細くなったのであろう。ところで鉄心が自らの別墅、無何有荘で独酌のあと、細香の家を訪れたときの詩は、二人の清遊の境地をあざやかに描き出している。「夜竹深沈として梔子(しし=くちなし)香しく、茶窓閑話、趣ことに長し。孤斟(しん=盃)すでに酔ふ北荘の月。看て君が園に到れば、別して光あり」。北荘はすなわち城北にあった鉄心の無何有荘。二人はともに酒を愛するひとでもあった。もっとも鉄心はさきに引いた詩集の序で、しょっちゅう彼女に深酒をたしなめられたと記しているが。
2012.6.18

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