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■大垣つれづれ
◇寺田寅彦が言及した大垣高女の事故
 「大垣の女学校の生徒が修学旅行で箱根へ来て一泊した翌朝、出発の間ぎわに監督の先生が記念の写真をとるというので、おおぜいの生徒が渓流に架したつり橋の上に並んだ。すると、つり橋がぐらぐら揺れだしたのに驚いて生徒が騒ぎ立てたので、振動がますますはげしくなり、そのためにつり橋の鋼索が断たれて、橋は生徒を載せたまま渓流に墜落し、無残にもおおぜいの死傷者を出したという記事が新聞に出た」。寺田寅彦のエッセイ「災難雑考」は、こう始まる。ここで責任者の追及をするよりは、事故の真因を追求するのが大事と言い、しかしそうしても人間の行為は常に災難を招く方向に向ってしまうので、それを防止しようとする努力がはたして実を結ぶだろうか、と話は展開する。寺田が自から言うように、この「まとまらない考察」は「楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑」であって、最近の出来事と思い合わせれば、彼の思考がペシミズムに辿りつくのも当然かと思われる。
 ところでこの事故は1935年5月6日午前5時半ころに起きた。東京方面への修学旅行に出かけた県立大垣高等女学校の生徒201名が堂ヶ島温泉の大和屋旅館に一泊、翌朝、電車の時間に少し余裕があったので付近を散策、記念撮影をということで、2組の一部に3,4組を加えての70名ほどが吊橋中央に差し掛かったとき、突然、橋が落下、生徒たちは渓谷に雪崩落ちたのである。もちろん旅行は取りやめになり、7日の朝、軽傷者42名を含む188名が大垣駅に帰ってきた。駅頭には父兄や一般市民600名が出迎えたと新聞は報じている。小田原の病院に入院した重傷者12名も、故郷に早く帰りたいということで特別車両増結の列車で8日の夕刻、大垣に帰ってきた。この日は1500名が出迎えたという。頭を打って一時、危篤と伝えられた1名のみが病院に残ったが、彼女も無事に月末までに帰ってきた。幸いにも皆、不自由が残るといったこともなく済んだようだが、とにかく大垣にとっては大事件で、連日、さまざまな関連記事が新聞の紙面を賑わせた。
 12日の新聞は、15年ほど前に造られた橋のロープを吊る鉤環が腐蝕、その1個が破砕したことでロープが緩んで他端の鉤環もはずれ、さらにもう一方のロープの鉤環も切断したことが事故の真因と報じている。寺田はこの文章をその年の7月号の「中央公論」に発表したのだが、彼が執筆したころには、死者が無いことも、事故の原因も分かっていた筈で、何故このように書いたかという謎が残る。今となっては当時の新聞記事を照合する人も無く、寺田の不正確な文章があちこち引用されて一人歩きしている。昔は災害があるとすぐ彼の「災害は忘れた頃に」という言葉が引かれたものだが、さすがにこのごろは彼の名を見ることも少なくなった。もっともこれは彼の文章の正確な引用では無く、弟子の中谷宇吉郎が師の言としてまとめたものが広まったということだが。寺田はこの年の大晦日に57歳の生涯を閉じた。
2012.3.19

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